第15回野のはな書展感想
- harunokasoilibrary
- 18 時間前
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ごあいさつ
五月の木の葉はいつも新しく、
樹木(きぎ)は新緑の光に包まれています。
自然は澱(よど)みなく、
生命(いのち)の息吹(いぶき)ではちきれそうです。
しかし、いまだ戦(いくさ)の記憶はなまなましく、
平和ということばが空しく響きます。
血ぬられた幾千万の屍(しかばね)の上に、
自由の花が咲き、平和が綱渡りしています。
危うい均衡(きんこう)の、つかの間の平和に、
人工の四角い部屋で、
作為(さくい)の花を咲かせることに、
どれほどの意味があるのでしょうか。
春野かそい (出品目録掲載文)
第15回野のはな書展感想

15回といえば節目らしい、ぼくは知らなかった。5回、10回もそうらしい。そういえば、10周年記念なんて看板をどこかで見かけたなあ。だらだら続けることが良いとも思わないし、何を記念するというのだろうか。なぜ節目なのか、それにどんな意味があるというのか、ぼくには分からないから、今回の展覧会についてことさら意見も何も言わなかった。しかし、15回が節目の一つらしいので、少し思い出すことなど書き記してみたいと思う。
ある書道会を追放されたぼくは、しかたがないので、ぼくが指導していた百人近い書道塾の塾生を引き連れて、母(春野瑞景さん)と一緒に「野のはな書道会」を創(はじ)めた。「野のはな」は母の命名である。ぼくが追放されたのとほぼ同時に植田春汀(しゅんてい)さんが、ぼくたちの同志になってくれた。春汀さんは書道の師範だったけれど、書の指導のみならず煩雑な事務・雑用を一手に引き受けてくれた。春汀さんは凡人7人分に匹敵する事務処理能力を発揮し、献身的に「野のはな」を支えてくれた。書道のキャリ

アは、ぼくよりも豊富である。ぼくは何度も「野のはな」を棄てようとしたのに、春汀さんは我が子のように「野のはな」を愛(いつく)しんだ。そのおかげで今日まで続けてこられたのである。多くのかたがたに支えられて来たのではあるが、春汀さんがいなければ、とうの昔に「野のはな書道会」は影も形も無かったであろう。だから、「野のはな」イコール植田春汀さんと言っても過言ではない。
さて、今回は出品者の元気をあまり感じなかったので、出品数も少なく、小さな作品ばかりだろうと予測して、春汀さんとぼくで、あの広い会場の壁を埋めなければならないと思い、出品の予

定をしていなかった旧作などを急遽(きゅうきょ)表装して、ぼくは「憲法第九条」以外に未発表作品を5点、旧作を3点出し、春汀さんは新旧合わせて8点も出し、2人合わせた表装代だけでも大変しんどい事であった。また、書展の案内が数社の新聞に大きく写真入りで掲載されたことは幸いであったが、これは「憲法第九条」の影響に過ぎない。それはそうだとしても、めったにないこのような機会に力作があまりなかったことは残念であり、不甲斐ないことであった。みなさんには、もっと力があるのに無念である。
心のこもった作品がほとんどだったけれど、特に小原さん、遠方からの出品者の信江さん、上井さん、向井田さんと、賛助出品の江村さんと多田さんの作品が元気よく、かつ緊張感があって大変好感が持て、学ぶところも多かった。ご本人の作品の前で自作の歌を一部だけうたっていただいた江村さん(芸名は空あかねさん)のシャンソンは、ずーと聴いていたかったけれど、残念ながらそうもいかなかった。有料にすべきだったと反省している。有本さんは相変らず力作ぞろいだったが、いつもより元気がなかったのが残念。村井さんも時田さんも独自の世界がじわじわと出て来ている。これから、もっと世界が広がることだろう。楽しみである。森さんの詩は難解だけど、貫いてほしい。小林綾(栗里)さんと春野順子(瑞景)さんの作品の前では不覚にも涙がこぼれてきて困ってしまった。お二人とも会創立以来ぼくを支えてくれた恩人である。一人は実母、もう一人はこころの母であり、師である。小林さんは、ついに観に来ることが出来なかった。お二人がいなくなったら、ぼくは出品しないかもしれないと思った。この会はどうなって行くのでしょうねえ。これが最期の作品だと感じていつも作品を出品され、書の切実さを教えてくださる90歳の片山スサさん。心のこもった花を活けてくださった山本澄江さんの「一歩」は思いやりがあふれていた。おひとり座・西川禎一さんの人形へ「ありがとう」。それから、ぼくの酷評などものともせずに、「野のはな」を支えてくださっているその他すべての出品者に、「これからも懲りずに共に歩んで行こう」「ありがとう」とエールを送りたい。
表現は絶対自由であるが、一言三言。聴く耳を持っている人だけ聴けばよろしい。「書は読めても読めなくてもよい」「言葉の背後にある言葉では表現できないものを表現するのが書である」「臨書をして書の表現の意味を学び、創作をして現在(いま)の書をかこう」「言葉はどんなに立派な言葉でも言葉にすぎない。書は言葉の宣伝をするのではなく言葉以上のものを表現しなければ意味がない」「スタイルとは自分の声で歌うことである」。「世界は一つが良いが、声はみんな違ったほうが良い」(これは武満徹さんの言葉)くだらない先入見を捨てて噛みしめてもらいたい。口が酸っぱくなってきた。
来場者が感想の中で書展の意義について正しく述べていることには励まされた。「書」とはなんなのかが、少しずつだが解ってきたように思う。来年があるかどうかは神のみぞ知るだが、もう少し出品者はもちろん、出品していない会員も、展覧会の意義について深い理解を持ち、あんな、きれいで広びろとした会場に展示できる幸せをかみしめたほうが良いとぼくは思った。表現の場を確保するのは大変なのだから。
(2009年6月・会員つうしん第102号掲載)
作品講評会で述べた「線の表現9ヵ条」については割愛するが、「書道もろもろ塾」で再び詳しく学びたいと思っている。これは聞き逃すべからず。
ありがとうございました。

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