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線の鏡

  • harunokasoilibrary
  • 8 分前
  • 読了時間: 5分

 白い紙を切り裂くように、墨を含んだ筆が文字を刻んでいく。それは人間の皮膚を切り開くメスのように僕自身の内部を曝(さら)け出す。その玄(くろ)い裂け目には、僕の隠しておきたい恥ずかしい経験や想念が、打捨てられた死体に群がる蛆(うじ)のように次から次と湧いて出る。

 書とは恐ろしいものである。軽やかなリズムで速度を上げて明るい線を刻もうと目論(もくろ)んでも、そこには失望と猜疑心(さいぎしん)に暗く沈んだ己(おのれ)の姿が見え隠れする。力強く確信あふれる線を彫り付けようと企(たくら)んでも、不信と無力感と幻滅に歪(ゆが)んだ己の姿が現れる。優しく思いやりのある線を画(か)きつけようと念じても、不寛容で、利己的で、世界の混乱に活気づく無慈悲な己が見えてくる。書は意識的に企むものであり、表現は嘘ではあるけれども、線に刻み込まれた己の真実は隠しようもない。線は鏡である。己の真実と真正面に向かい合うところから書は始まるのだ。

 愛のない行為はすべて無意味である。人間にとって愛だけが本当に必要なものなのだ。愛とは他者と自己が合一することである。それは自己が無くなるという事だ。僕は愛の姿を見たことがないが、しかし目に見えない風のように、耳朶(みみたぶ)を微かに撫(な)でて、愛は何度か僕の前を通り過ぎた。愛は確かに在る。

 恋愛は愛の片鱗(へんりん)ではあるが、愛ではない。恋愛は蠱惑(こわく)的な衣装で

発情期の生命を誘惑し、それぞれの欲望の満足のために互いを利用し、奪い合う。奪い合いは暴力である。暴力のあるところ愛はない。生命は男女の欲望の中で誕生する。われわれ生命は愛と名づけられた暴力の中から生まれてきたのだ。それが宿命である。わが子を思う母は無私(むし)に見える。そうでない女を母とは呼ばない。母は慈母(じぼ)でなければならないのだ。母性だけが生命を絶望の淵からすくい上げることが出来るだろう。しかし、母性はわが子しか愛さない。それは本当の愛ではない。むしろ愛から最も遠い存在かもしれない。われわれは母の中に愛の片鱗を感じ得るにすぎない。その愛の片鱗の中に人間の激しい祈りと見果てぬ幻想がある。

 われわれが知っている世界は、狡猾(こうかつ)な脳が造った世界である。知性が世界を分離整頓する。分離は暴力である。最も知的な学者が戦争と平和は表裏一体だとし戦争を肯定している。人間の歴史は、知性という名の暴力の連鎖である。人間とはどうしようもない存在だ。人間は、いまだかつて愛によって造られた世界を知らないのだ。愛の裏打ちのない世界は意味のない世界である。このような人間は亡んでもしかたがないであろう。

 玄(くろ)い線の中の僕の恥ずかしい姿は、限りない悪逆非道(あくぎゃくひどう)を繰り返してきた人間の恥ずべき経験と同じものである。そこには人間だけでなく、生命数十億年の垢(あか)がびっしりとこびり付いているのだ。生涯をかけてごしごし磨けば、愛だけで創られた無垢(むく)な僕がそこに現れるであろうか。

 木の描く線はすべてシンプルで美しい。その可視的(かしてき)な線には、それを生み出した不可視(ふかし)の原動力がある。その原動力が愛なのかもしれない。僕は自己の深層にも在るであろう愛の顔を見てみたい。しかし自分の死と同じようにそれは決して見ることが出来ないのかもしれない。自己の死が愛なのだから。

 われわれは、自分の死というものを経験することは出来ない。他者の死を見て死というものを想像出来るだけである。死が苦しいものなのか、楽しいものなのか、その先に何か在るのか無いのか、誰にも解らない。釈迦も孔子もキリストも死を経験することは出来なかった。ただ自己の外で起きている死を悼(いた)み眺めることができるだけである。

 書の線は自己を映す鏡であるが、それは筆者の心のありようだけでなく、観者の心のありようも反映する。玄い線の奥に開ける広大無辺(こうだいむへん)な世界は心の海である。そこは経験という名の死の坩堝(るつぼ)である。

 元始、生から生が誕生したのではなく、無から生が誕生したと思われる。無とは有りとし有る物の故郷(ふるさと)である。死ぬとは無という故郷に帰ることだ。死は個人としての時間が無になること、そう、それは自分が無くなることである。それは本来の自己に還(かえる)ことである。無は広大無辺な海のようなものであり、生命とは、その果てし無い海に立つ波の飛沫(しぶき)の一粒のようなものである。死は絶対であり避けることは出来ない。死の前に生命は平等である。生を産み出す無の海は、母なる海である。死が生を産み出すのである。世界のいたるところにあるが、決して人間が経験することの出来ない死は、僕が未だ見たことのない愛とよく似ている。愛は確かに在るが、それは死と同じように決して経験することが出来ないのだ。

 僕は、些(いささ)か妄想に取り付かれたようである。

 ともかく、生命は生きることが全てである。好悪(こうお)や倫理のためにではなく、人間が生きつづけるために芸術は発明されたのだ。

 線に映ったあるがままの自己に気づき、欠陥を乗り越えて、普遍的な人間性の開放のために線は強くなければならない。しかし、今日(きょう)まで僕は、本当に強い線を見たことがない。おそらくそれは、存在のすべてに価値を認め、上下や軽重や分離のない世界が誕生したとき、この世界に自然(ふと)現れるに違いない。

(2009年10月・会員つうしん第104号掲載)

 
 
 

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