第11回野のはな書展(2005年5月4~8日)
- harunokasoilibrary
- 4月5日
- 読了時間: 7分
ごあいさつ

どこに新しいものがあるでしょうか。
どこに美しいものがあるでしょうか。
どこに創造があるでしょうか。
ほんとうの創造は新しいものです。
新しいものは生き生きとしたものです。
生き生きとしたものは美しいものです。
それは、名づけられぬものでしょう。
ここに、新しいものがあるでしょうか。
美しいものがあるでしょうか。
創造があるでしょうか。
(目録掲載文)
第11回野のはな書展感想

21世紀の最初の年から始まった、清水(きよみず)での書展も、ギャラリーの閉鎖により、今回が最後の展示となりました。清水(きよみず)で5回展覧会を開催できましたことを、皆様に感謝致します。
この短い4年余の間に、忘れられない出来事、出会いや別れがいくつもありました。紙面を借りて、わたしの個人的な感想を述べることをお許しください。
「ははこぐさ」「ちちこぐさ」シリーズは、ここで始まりました。清水(きよみず)の森陶器館の、森善美(よしみ)・規子(のりこ)ご夫妻は、焼き物へのわたしの情熱を、損得抜きで受け止めてくださり、物心両面から支援してくださいました。それが制作への強力な励ましとなり、焼き物を出品することが出来るようになったのもここでした。スイスにお住まいの村上淳子さんが、蝶(ちょう)のように訪れ、わたしの作品に出合われたのもここでした。わたしの作品が彼女に運ばれ、初めてヨーロッパに渡ったのでした。森かづ子さんが自作詩(じさくし)をすばらしい屏風(びょうぶ)作品にされ、フローラのように、新風を私たちに吹き込んでくださったのもここでした。埼玉の、信江さんの御一家とお会いしたのもここでした。今年は、東京の向井田(むかいだ)健一・通子(みちこ)ご夫妻に出会えました。旅の途中、ふと、この展覧会に出合い、年一度のこの展覧会を心待ちにしてくださる方も、年年ふえて参りました。展覧会実現には、多くの方がたの有形(ゆうけい)無形(むけい)の御協力と御理解がありました。思い出す事はいっぱいあります。
さて、今回の展覧会で感じたことを、いくつか述べましょう。
小林綾さんの作品は、書展のためのものではありません。小林さんは興(きょう)が趣(おもむ)くままに、途切(とぎ)れることなく、日常的に書かれています。その中の幾つかを出品されたのです。生活の中に書がとけ込んでいます。その様な作品なのです。小林さんの作品にはいつも新鮮な心もちがあります。若葉のような潤(うるお)いがあります。視(み)る眼と聴(き)く耳があります。
森かづ子さんの「樹(き)雨(さめ)」は、自作の詩を木に書かれています。ご本人は、準備不足で、納得いくまで書けなかったと思っていられるようですが、この作品は、いくつかの問題を、私たちに投げ掛けています。その一つは、技術と方法の問題です。ある方法、または方式にしたがって、手際(てぎわ)よく書き上げれば、間違いのない整った作品にはなるでしょう、けれど、はたしてそこに、生き生きとした温かい命が通(かよ)うでしょうか。通いません。最少の知識と、直感で、危険を承知で、未知の世界に踏み出してこそ、本当に命の通った生きたものになるのではないでしょうか。技術は既知(きち)のものです。既知のもので未知(みち)のものに出合うことはありません。はたして、私たちにそれが出来るでしょうか。出来ます。本当に新しい人になるならば。新しい人とは、年齢の問題ではありません。新しくなることは全ての人に可能です。最初に滲(にじ)んでしまったのを失敗だと思うのは固定(こてい)観念(かんねん)です。それは、発見です。未知の泥濘(ぬかるみ)があったのです。泥濘ぬかるみを見つめつつ、気にせず進むしかないのではないでしょうか。同じ道は二度と通れません。もちろん、橋や家をつくる技術は必要ですが、生きることに技術や方法が本当に必要でしょうか。
村井みや子さんの臨書二点は、真摯(しんし)で粘(ねば)り強い鍛錬(たんれん)が、よく表れた作品です。何か決意がおありなのでしょうけれど、過去に囚(とら)われないよう気をつけなければなりません。古典は死んだものです。死んだものを生きているように思うのは、古い記憶の仕業(しわざ)です。古い世界、それは暴力の充満(じゅうまん)した世界です。その世界が、いつまでも自己を温存(おんぞん)させようとして、古典や伝統の素晴らしさを、私たちに刷り込んでいるのです。古典がいかなるものか理解できたら、それに囚われずに、今を生きることが出来るでしょう。鍛錬によって技術は磨かれても、それは冷たいものになってしまいます。書道には難しいところがあります。一般に型から入るからです。気をつけなければなりません。本当の表現は、内部にあるものが表に出てきたものです。型以上に内部を豊かにしなければなりません。樹(き)の葉の枝の幹の根のその貌(かたち)は、内部の燃え上がる生命の貌かたちです。
片山スサさんの「希望」・堀りえ子さんの「輪」・平(たいら)千賀恵さんの「道」・升谷(ますや)恵美さんの「能登(のと)は…」・中村千恵さんの「志」・越田(こしだ)民代(たみよ)さんの半切・信江正子さんの衝立(ついたて)・高橋麻由実さんの「歩歩(ほほ)」・植田愛子さんの屏風(びょうぶ)が、多くの人に感銘を与えたのは、型や技術ではなく、生き生きとした、書き手の内部にあるものが、制作の機会を得て、表出して来たからではないでしょうか。特に、「道」と「輪」は、このうえなく温かい作品です。ここには表現において欠くことの出来ない、とても大切な何かがあります。技術を磨(みが)き、理解していく過程(かてい)で、忘れてはならない最も大切なものがあります。
金谷(かなたに)カズ子さんの「峡谷(きょうこく)の美」・「道草」は、道具を自在(じざい)に使えるようになった人の歓びを感じます。どんどん書いていかなければなりません。「芸術は短く、人生は長い」からです。
荻原(おぎわら)由美子さんは、最後の土壇場(どたんば)で、いつも力を発揮されますね。まだまだ書き足りないのではないでしょうか。いつも、「気」のような面白(おもしろ)い創作を書き上げられるので驚きます。考え過ぎないのが良いのかも知れませんね。
大塚恵美子さんの豆色紙は、長年の夢がかなった作品です。大塚さんは研究熱心で、満足を知らない厳(きび)しい御方(おかた)です。これから、どんどん書かれるとよいのになあ、と思います。
黒田いづみさんの隷書(れいしょ)軸(じく)・西村幸枝さんの傅山(ふざん)軸は、立派な堂堂とした作品です。お二人とも臨書しか書かれませんけれど、臨書といいましても、所詮(しょせん)、自己を映す鏡です。自己の投影以外の何ものでもありません。また、本当の創作は、自己表現ではなく自己認識です。書作を通して自己を凝視(みつ)め、自己を非難したり誇ったりすることなく理解したとき、自己のバリアは無くなるでしょう。そしてそこに、自由な自己を発見するでしょう。
小原(こはら)純子さんは、パーキンソンなんて洒落(しゃれ)た名前の、手が震える病なのか、何か知りませんけれど、そんなもの飲み込んでしまったような、恐ろしい字を書かれています。私たちのほうが、手の震えない病なのかもしれませんよ。わたしは、いつも楽しみにしているのです。どんな書が出てくるか。次回が楽しみです。
向井田健一さんの「篆刻」と「梟(ふくろう)」が、今回出品されて、書展が少し豊かになりました。もう、十分(じゅうぶん)考えて来られたでしょうから、考え過ぎないで、自由な作品を書いてください。次回が楽しみです。
小中弥生さんと時田麻里さんの作品は、いつも、とても静かで落ち着いた風情(ふぜい)です。風に逆らわない、しなやかな柳の枝か草の葉のようです。お二人は、野の花のようです。この会をしっかり支えてくださっています。本当の力とは、このようなものなのかなあ、と感じます。
堤湛山(たんざん)さんと片山スサさんは、八十歳を過ぎられても、書を愛する心を失わないどころか、ますます盛んです。書に対する愛において、わたしはとても及びません。私たちを励まし続けてくださることでしょう。杉本栄さんの半切は、遺作です。八十歳頃の作品とのことですが、気迫が漲(みなぎ)っています。
有本伶雲さん植田春汀さん春野瑞景さんの作品は、野の花の茎のような、書展の柱です。
しかし、生きた一本の木は、茎や根や葉だけでは存在しえません。それは分割できない全体として存在しています。中心はどこにもありません。存在の全てが掛け替えのないものです。私たちの書展もそのようなものではないでしょうか。
あなたにとって、書にはどんな意味があるのでしょう。また、書の価値とは何でしょう。正しい意味と価値を理解しなければなりません。そして、書が、ありのままの自己を凝視(み)つめることに役立つことを願っています。一人一人が、ありのままの自己を知ったとき、世界は変わるでしょう。そして、一人一人が自己の心の中の暴力に気づいたとき、世界は本当に平和になるでしょう。そこに希望があります。
次回、新しい人間の、本当に新しい作品に出合えたらなあと、わたしは思います。
ありがとうございました。
(2005年6月・会員つうしん第78号掲載)

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