植田春汀書作展 鑑賞28 「良寛(六曲一双屏風)節臨」 2016年制作
- harunokasoilibrary
- 7月12日
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大江茫々春將暮 楊花飄々點衲衣
一聲漁歌杳靄裏 無限愁腸爲誰移
大河が悠々と流れている 晩春である 風に吹かれた柳の花びらが 私の衣に降りそそぐ 深く暗い靄の中から漁師の歌声が聴こえてくる この深い悲しみを、どうして払い除けようか(いいかげんな意訳です)

我与筆硯有何怨 一回書了又一回
不知此事問阿誰 大雄調御人天師
わたしと筆や硯とは何の縁があるというのか 一回書き終わっても また頼まれる なんでなのか 知らない なぜこうなのか 誰に尋ねたら教えてくれるだろうか おそらく 仏陀だけが知っているのだろう(いいかげんな意訳です)
最近、私は、良寛の書について、ふっと考えることがありました。何がきっかけで考えたのか、忘れましたが、たぶん、余白のことを考えていた時だったと思います。なんで余白のことを考えていたかも忘れましたが、その時、良寛は紙や板に字を書いていますけれど、本当は、空に書いていたのではないかと感じたのです。無限の空間に書いていたのではないかと。そう思ったのは、良寛の作品の余白が彼岸へ通じているように感じたからです。良寛の墨線は、此岸から彼岸へ、彼岸から此岸へと、往還しているように感じるのです。
良寛は、この詩を、詠みながら書いたり、すでに出来上がっていた詩を、頼まれるたびに思い出して書いたりしたのでしょうが、春汀さんのこの臨書作の手本は、良寛の真跡ではないかもしれませんねぇ。たぶん、真跡だとは思いますが、良寛は自作の詩でも、気分によって、「我」を「吾」と書いたり、「誰」を「阿誰」と中国語風に書いたり、「天人師」を「人天師」と書いたりしていますから。詩人として、考え抜かれた言葉を創造しながら、その言葉から自由であったし、漢詩の定型からも自由であったようです。書も行の中心線を意識するのは習慣でしょうが、そこからも自由に書かれていますねぇ。
春汀さんの臨書は、良寛の突きの柔らかさを良く捉えていますけれど、良寛以上に綺麗に書かれています。それが春汀さんの言葉なんでしょう。良寛は、王羲之や欧陽詢、懐素や秋萩帖を深く学んだと思われますが、そこから書の美と、自由に書くことの楽しさを知ったのではないでしょうか。春汀さんも、臨書を通して、良寛の自由な精神を学ばれたことでしょう。
春汀さんのコメントを転載しておきます。
「良寛の臨書をするのは何となく気が引けていましたが、春野先生が薦めて下さったことでその資格が与えられたような気がして嬉しかったです。とはいえ「余白の美」「細くてしなやかで強い線」は、やはり私には難しく、今回も苦手への挑戦でしたが、勉強になりました。」 2016年制作 各、約138×52㎝
2020-03-14 20:40:19



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