余白再考1-書芸術の活性化を願って-
- harunokasoilibrary
- 11月17日
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(雑誌「墨」第9回評論賞に応募した論文です)
私にとって「余白」とは、理想郷への窓である。その窓の向こうには生死を越えた世界がある。
私はこの余白を書くために文字を書いてきた。
筆に墨を含ませ、白い紙に文字を書くと、それまで白紙という物質にすぎなかった紙が、生命をもった生きた何ものかに変化する。文字は言葉によって姿形(すがたかたち)を変え、それにつれて点画(せん)の周囲の白い光も変化する。「白い光」とは「余白」のことである。「余白」とは点画の周囲の「縁(へり)」のことだ。この「縁」が言葉を発するように変化するのである。文字を書くとは、一般に言葉を書くことであるが、本当の言葉は、墨で書かれた黒い文字からではなく余白から発せられるのである。
書芸術とは余白芸術のことである、と私は考えている。
余白がどのように描かれてきたか、書芸術を中心に古今東西の平面作品を少しだけ見てみよう。

図版左は「大聖武(大和切)」の部分である。この作品の余白は平面的で、奥行きがなく、紙は字を載せるための台のようである。作者にとっての大事は、経典の文字であり、余白ではない。文字が書式に従って整然と並べられている。経典の文字を間違わないように緊張しながら言葉を綴っている。罫線に導かれて、字間も行間も等間隔にあけられている。余白は澄み切って、宗教的な緊張の中で凍りついているようだ。聖なる余白と言えば良いのだろうか。
図版右は「寸松庵色紙」である。きれいな絵入の料紙に、和歌が散らし書きされている。料紙の絵と和歌の内容とは無関係である。
きれいな紙に、きれいに字を書きつけようとしている。行は連綿され、林の木か露草の葉のように等間隔に並べられている。線に強弱があり、水墨画の様な微妙な奥行きが感じられ、余白は立体的である。

図版は「継色紙」である。白い紙に和歌が散らし書きされている。行は連綿され、林の木か草の葉が空に向かって生えているように並べられている。料紙の上部をひろくあけ、あたかも、きれいな一幅の風景画を描くように作られている。作者は和歌を書きながら、花盛りの梅林を紙の余白に思い描いたのであろう。この詩人は、白い紙、白い梅、白い雪を余白の中に夢みて描いたに違いない。白は汚れなきものの象徴であったのだろう。ここには作者の理想が描かれているのだ。

王羲之、鄭道昭、欧陽詢、顔真卿など中国の書法家は余白を書く意識があまりなかったようである。彼等は文字を書くことに専念しているようだ。罫線またはマス目の中にきちんと並べている。行間、字間の広狭は書き手によって多少はあるが、ほぼ共通しているのが不思議である。
中国の書法家が余白を書く意識がうすいのは、漢字の性質からきていると思われる。漢字はただ書くだけで何かが表現される文字だからだ。漢字は書きぶりだけで表現になる。漢字には散らし書きをする必要がない。余白の意識は、日本で発達したものかもしれないが、やはり原型は中国からきたものであるだろう。(つづく)
2017-01-24 12:18:58



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