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植田春汀書作展 鑑賞21 「さらにまた むすぼほれゆく心かな とけなばとこそ おもひしかども」(西行「山家心中集」より臨書)

  • harunokasoilibrary
  • 7月12日
  • 読了時間: 3分
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 西行の『山家心中集』は、縦16.5×横15.4㎝の小さな冊子です。その小さな字を、拡大して臨書されています。 恋の歌です。西行の晩年(1175年頃)の作です。書は西行の自筆ではなく、藤原俊成か、俊成流を習った人の手のようです。

 春汀さんの臨書は、墨法が少し違いますが、ほぼ字形や雰囲気や布置章法はそっくりに書かれています。雰囲気が似ているという事は、書き振りが似ているという事です。書き振りとは、筆の遅速、筆圧の強弱、筆の入筆角度などによって変わってきます。その書き振りを目習いだけでたどることもできますが、実際に書くのが一番でしょう。時間がない人は、目習いだけでも、鑑賞にはなると思います。書は鑑賞から始まるのですから。より良く鑑賞できることが、書の理解の第一歩です。


 臨書とは何でしょう。古典作品を写すことを臨書というかたも多いでしょうが、私は、古典だけでなく、書に向かうことを臨書と、広く解釈しています。古典であっても現代の書であっても同じです。本当の意味で、臨書は難しいものです。難しいからやりがいもあるというものです。この西行の「山家心中集」のこの歌一つとっても、まず、書き写しながら、その書の造形的な姿を、表面的にでも忠実に再現し、身をもって感じなければなりません。しかし、それだけでは十分ではありません。考えて理解しなければなりません。感性から入って、知的な理解に至り、また、より深い感性に戻らねばなりません。考えて理解するとは、たとえば、この西行の臨書の場合、この書が、西行の自筆ではなく、藤原俊成か、もしくは、俊成の書法を身につけた人が書いたものだ、と推定される訳を勉強しなければなりません。俊成は平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて生きた公家で歌人です。そのころ公家の間で流行っていた書は、藤原行成を祖とする、世尊寺流です。その世尊寺流から分派し流行した流派の一つが俊成流です。俊成の晩年の筆になる「日野切」をみますと、強く鋭く屈曲した筆法が特徴だということがわかります。

藤原俊成筆「日野切」断簡
藤原俊成筆「日野切」断簡

そこから推定しますと、この西行の書は、俊成ではなく、俊成流を学んだ女性の手になるものだと思われます。なぜなら、俊成の鋭さより、行成風のやわらかさが勝っているように感じられるからです。春汀さんの臨書は、さらにやわらかい表現になっていますねぇ。

 このように臨書とは、その書がそこに在る現実と、それが誕生するために準備された時代の働きまで考え、学んで、はじめて、少しだけその本当の姿が見えてくるのだと思います。さらに、それを今、書いている自分とは何か、なぜ書いているのか、何を書こうとしているのか、などなど、考え理解しなければなりません。いささか頭が疲れてきましたから、きょうは、このあたりで筆を擱くことにします。


春汀さんのコメントを転載しておきます。

「『伝西行』となっていますが違うようです。

鋭い筆遣いと形のデフォルメを楽しみながら、本一冊書き写し、この一首を作品にしました。」 2011年制作

2020-03-04 09:46:53

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