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植田春汀書作展 鑑賞18 「何もなき床に置きけり福寿草」(高浜虚子)

  • harunokasoilibrary
  • 7月12日
  • 読了時間: 3分
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 私は、これを書いた頃、虚子が好きだったわけではありませんが、お正月向けの適当な言葉を探していて、良いものがなかなか見つからず困っていたところ、この句を見つけて、さほど気に入ったわけでもなく、何という深い意味があるわけでもない写生句ですが、手本誌の締め切りに間に合わせるために、急いで書いたのでした。その後、俳句などの勉強もし、結果、虚子は特に嫌いな俳人になりました。言葉の表面だけをみて言葉を選んではいけませんねぇ。その後、虚子は私の中には存在していませんでしたが、今、春汀さんのこの作品を見て、未熟な自分を反省しているところです。

 春汀さんは、私の書を写したと言っていますが、福寿草のちぎり絵と同じように、私の書より、端正で麗しい、新年らしい瑞瑞しい書になっていますねぇ。「元日草」という異名があるように、福寿草の黄色い光と書が一体となって、元日の朝のように、ハガキ全体が暖かく澄んでいるように感じます。


 ついでに、この句の中に出てくる「床(とこ)」について、一言かいておきましょう。「床」は「床の間」とも言います。床は、本来、神の宿る神聖な場所でした。聖域といいますか、家の中の守り神のいる場所だったのです。また、床には掛け軸を掛けたりしますが、掛け軸は、もともとは中国で礼拝用に使われていたものです。禅宗の僧たちも、床に掛ける物で自分の思想や信条を確認し、来客に自分の真心を伝える意味があったのです。だから、床に飾る掛け軸や置物には、自分の尊敬する人の作品とか、生きる拠り所とする言葉の書かれた書や絵画を掛けたのです。今では、そんなことは忘れられてしまいました。多くの掛け軸は単なる壁掛け用のインテリアになり、自分の趣味を見せびらかすほどのものになってしまいました。ひどいのは、自分の作品を堂々と掛けている人がいることです。その人には、自分が神なのかも知れませんね。現代のような、自分がすべての時代には、已むを得ないのかも知れませんが、何か間違っているように私は思います。

 書も芸術作品として展覧会などに出して鑑賞するようになっていますし、本来の書ではなくなっているのかもしれません。家中自分の書を飾って喜んでいる人もいますが、書家ならば、玄関や居間や客間など他人の目につくような所に自作を飾ったりはしないものです。他人の目につかない所に飾って、絶えず自作の至らない表現を反省するものです。もちろん、書が自分の心を鍛えるためのものだけでも、絵画と同じように芸術であっても良いのですけれど、何かすっきりしません。もっと深く反省して、書を理解したいと、私は思っています。

2020-02-29 15:44:14



春汀さんのコメントを転載しておきましょう。


「年賀状用に福寿草のちぎり絵をし、1994年の新年に春野先生が書かれた書を写したハガキです。」 2007年ころの制作か?

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