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「ミゼレーレ6」(悪) 作品226

  • harunokasoilibrary
  • 9月28日
  • 読了時間: 2分

更新日:10月19日

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春野かそい書「ミゼレーレ6・毒麦は刈り入れまで待つ ・・・蛇蝎でも」(悪・vice)

2018年12月 約23.5×23.5㎝ 唐紙・墨

「悪」と書かれている。

 


孤独な人は

毒麦しか咲かない荒地に

独り柔和な顔をして

せっせと

休まず

種を蒔く


蛇蝎は蛇蝎のままで

どうすれば良いのだ


(個展「ミゼレーレ」図録から)


副題の「毒麦は刈り入れまで待つ」は、マタイによる福音書13章24―43節より引用。イエスの語った譬え話である。見れども見ず、聞けども聞かず、悟れない人間に対する、イエスの深い慈しみと知恵を表すこの章は、なかなか含蓄に富んだ章である。人によりその意味や解釈はまちまちだろうが、わたしは、イエスが悪人をも救おうとしたと解釈している。イエスの忍耐と愛についての譬えだと考えている。良い種を蒔いても発芽も、結実もしない絶望と希望の中で、懲りることなく種を蒔きつづけるイエスの姿である。わたしが書いた図録の言葉にある「孤独な人」とはイエスのことである。それは真の芸術家のことでもある。わたしのようにすぐカッとくる人間ではなく、「柔和で勤勉」な人のことである。もう一つの「・・・蛇蝎でも」は、親鸞の『正像末和讃』からの引用である。『歎異抄』第三章にあるように、親鸞の「悪人正機説」に基ずく思想であろう。蛇蝎はダカツまたはジャカツと読む。自分を守るために毒を持つヘビやサソリのことである。『正像末和讃』は「ショウゾウマツワサン」と読み、親鸞85歳頃の和讃である。親鸞は自分のことを「蛇蝎の如し」と言っている。


わたしは、ただ、自分の必然に従って作品を創造するが、芸術は、鑑賞者が完成させるものではないだろうか。鑑賞者は、作品を自由に解釈すれば良い。上の解説はどうでもいいものなのかも知れない。

2018-12-30 11:16:37

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