「ミゼレーレ2」(孤独) 作品222
- harunokasoilibrary
- 9月28日
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更新日:10月19日


春野かそい書「ミゼレーレ2・孤独に耐えて・・・・・・」(孤独・lonely)
2018年12月 約23.5×23.5㎝ 唐紙・墨
「孤独」と書かれている。
展覧会場に居ると、身心ともに大変疲れるので、初日と最終日以外は居たくないのだが、今回は、手伝う人も少なく、作品をほったらかしておくわけにもいかず、期間中、終日ボーとして、だいたいは控室に座って、読書したり、息子の作曲した、特にお気に入りの音楽に聴き入り、コーヒーを何杯も飲んだりして、退屈することはあまりなかった。わたしがそのようにのんびりと過ごせたのも、わたしと同じように、期間中、終日ボーとせずに、無礼な、また礼儀正しい来場者に応対し、何から何まで世話を焼いてくれた天女が居てくれたからであった。
言うまでもなく、作品をどう解釈しようがそれは鑑賞者の自由である。様々に鑑賞されることを作品は望んでいるかもしれない。ある人は、タイトルを見ずに本紙だけを1番から28番まで順に見ていくと、少しずつ変化していく様子が分かり、バッハのゴルトベルク変奏曲のようでもあるが、次にタイトルを読みながら作品を見ていくとあまり面白くない、タイトルを見ないほうが良かったようなことを言われて、その後、ゴルトベルク変奏曲は退屈で眠くなると言われたので、じゃあ、わたしの作品は、退屈ということかな?真意のよく解らない感想ではあった。また、ある人は、タイトルを見ないで見ると、全体にすごく明るい感じがするけれど、タイトルを見ると、暗い言葉が多く、その言葉とのギャップがまた面白いと言う。あーあ、色々な解釈につき合うのは面白いけれど・・・・・・。
このような印象批評では作品は何も本当のことは語ってくれないだろう。印象批評と言ったが、これらは批評なんてものではなく、単なる印象に過ぎない。鑑賞するとは、批評し、作品を再創造することだから大変難しい事ではあるが、それ抜きでは芸術の存在意義がほとんど無いに等しい。多くの鑑賞者が批評どころか鑑賞もしていないといったほうが当たっているだろう。
2018-12-26 10:05:18



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