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「ミゼレーレ22」(愛) 作品242

  • harunokasoilibrary
  • 7月26日
  • 読了時間: 3分

更新日:10月20日

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春野かそい書「ミゼレーレ22 ・あなたは人の世の苦しみを背負って・・・」(愛・love)

2018年10月制作 約65×65㎝ 紙本・墨

「愛」と書かれている。


涙しか知らないあなた

耐えよ!

愛はそこにある!

明日は晴れるよ!

愛こそすべて!

(個展「ミゼレーレ」展図録より)


パスカルの『パンセ』(わたしが、15歳の時、おそらく、初めて買った本でタイトルは『パスカル瞑想録』)を書棚から取り出して、その、断章第553「イエスの秘儀(1)」を読み直してみた。

というのは、この「ミゼレーレ22」の副題「あなたは人の世の苦しみを背負って・・・」が、ルオーの「ミセレーレ」第35の副題「イエスは、世の終わりに至るまで苦しみたまわん・・・・・・」からの変奏だからであり、ルオーのこの副題が『パンセ』断章第553から引用されているからである。

少し長いがその箇所を引用しておこう。

「イエスはその苦難においては、人間がかれにくわえる苦しみをしのばれる。だが、そのさいごの苦悶においては、自分で自分にあたえる苦しみをしのばれる。〈はげしく感動し〉それは人間の手から生じる苦痛ではない、全能の御手からくる苦痛である。それにたえるには全能でなければならないから。  イエスは少なくともその三人の最愛の友に、多少の慰めをもとめられる。しかし、かれらは眠っている。かれらがかれとともにしばらくたえしのぶことをもとめられる。しかし、かれらはさして同情がないので、一瞬間も眠りにうちかつことができず、かれをまったくなおざりにしてかえりみない。かくしてイエスは、ただひとり神の怒りの前に取りのこされる。   イエスはただひとり地上におられる。地上にはかれの苦痛を感じ、それをわけあうものがないだけでなく、それを知るものもない。それを知っているのは、天とかれとのみである。  イエスは園におられる。それは、はじめの人アダムが自分と全人類とを堕落させた快楽の園ではない。かれが自分と全人類とをすくわれた苦悩の園である。  かれはこの苦痛とこのおきざりとを、夜の恐怖のなかでしのんでおられる。  イエスが嘆かれたのは、このとき一度しかなかったと思う。だが、このときには、極度の苦しみにもはや耐えられないかのように嘆かれた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。」  イエスは人間のがわから仲間と慰めとをもとめられる。このようなことは、かれの一生にただ一度であったと思う。だが、かれはそれをえることができない。弟子たちが眠っているからである。  イエスは世の終りまで苦悶されるであろう。そのあいだ、われわれは眠ってはならない。  イエスは、かくすべてのものから見すてられ、かれとともに目ざめているためにえらばれた友だちからまで見すてられながら、かれらが眠っているのを見いだして、かれでなく、かれら自身がさらされている危険のゆえに心を痛め、かれらが忘恩におちいっているあいだも、かれらにたいする心からの愛情をもって、かれら自身の救いとかれらの幸福とについてかれらをさとし、「心は熱しているが、肉体がよわいのである」とお告げになる。  イエスは、かれらがかれらのことを思ってもかれら自身のことを思っても、目をさましていることができず、なおも眠っているのを見て、親切にもかれらを呼びおこさず、休ませたままでおかれる。  イエスは、父の御旨が確かめられないままに、祈りかつ死を恐怖される。だが、それがわかると、進みでて死に身をさし出される。〈立て、さあ行こう。進みでて。)(ヨハネ)・・・・・・」(由木 康訳)

この、ゲッセマネの園の話しは、キリスト教の独自な性格をよくあらわしていると言われる。それは、自己放棄と愛の、感情と精神である、と思われる。

2019-01-15 08:55:36

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