春野かそい作品鑑賞 愛は何処35 つづき3
- harunokasoilibrary
- 6月7日
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いま思えば、ぼくの第一回個展(2000年)の作品群は偶然性による芸術だったのだ。当時、ぼくは禅もケージの思想もよく知らなかったのだが、結果的に、書の道を通して、半世紀ほど遅れて現代芸術家の意識に並んだのかも知れない。そういえば、来場者の何人かが「禅ですねえ」「禅ですか」と感想を語っていたことを思い出す。ぼくは禅などぜんぜん 意識していなかったのだが・・・・・・・・・しかし、この個展作品は、武満徹やメシアンの音楽の影響が大きかったので、その音楽から感性的に禅の思想の影響を受けていたのかも知れない。
1966年公開の映画『ドクトル・ジバゴ』は、1965年、デビッド・リーン監督の制作である。ロシアで公開されたのはソ連崩壊後の1994年である。
原作のソ連での出版はソ連崩壊直前の1988年。この小説は第一次世界大戦とロシア革命と内戦について、その後のスターリン体制時の思想弾圧、粛清時代の愚かな大衆や共産主義者のイメージをリアルに物語っているが、それが反ソビエト、反体制、反共産主義的だということで当局から迫害をうけ、社会主義国では長いあいだ出版されなかったのである。
ソ連の「ノーヴイ・ミール(新世界)」誌の編集委員会は、この小説は十月革命を、そして「この革命とソ連における社会主義建設を実現した人々」を中傷している、と述べた。また、 この小説に対するノーベル賞受賞は、「政治的アクション」として切り捨てられた。パステルナークへのノーベル賞授与は、「小説をめぐる反ソビエトの誇大宣伝」と決めつけられた。当時は東西冷戦時代だから西側の反共主義者達の策謀もありうるかもしれないが、当局から「裏切者」とレッテルを貼られた詩人への迫害は、一般の勤労者も動員されるほどの規模に達した。ノーベル賞受賞による国外追放を恐れた愛国者パステルナークは、受賞を辞退した。
原作と映画『ドクトル・ジバゴ』の政治的意図については今は述べないが、ソ連当局やそれに煽動された大衆は狂っていたのだ、とぼくは思っている。
映画『ドクトル・ジバゴ』の主要キャストの造形には感動する。特に、ヒーローのユーリ・ジバゴ、ヒロインのラーラ、ジバゴの妻のトーニャ、ラーラの夫のパーシャ・アンティポフ、コマロフスキーなど。イメージは監督が最終的には決定しているのだろうが、監督だけでなく俳優自身の才能、脚本家、カメラマン、撮影監督、ガファー(照明技師)、キャスティングディレクター、音楽監督、美術、衣装、ヘアメイクなどのスタッフの協力が大きい。
トーニャの清楚で純粋、綺麗でやさしい、頭がよくて剛毅、良妻賢母、ラーラの野性的で情熱的な姿、一途な純粋さ、綺麗で賢く剛毅な理想的な恋する女の姿、愛の化身、エロスの象徴などなど、これらを映画の中で造形してゆく工程は書の造形に通じるように、ぼくは感じる。
ロマン『ドクトル・ジバゴ』は単なるラブロマンではなく、パステルナークが神の遺言だと信じた、20世紀のマグダラのマリアとヨハネの黙示録の再現とキリストの復活劇だ、とぼくは思っている。
今回はこのへんにしておこう。
映画についてもっと考察するつもりだが、かなり長くなりそうなのでいずれまたつづきを。
映画の真実は分からないだろうが、分からない方がいいかもしれないねえ。
しばらく、6月の書展に向けて「愛は何処」のつづきを制作する予定だが、
必要なら、何か書くかもしれないが、当分、ブログは休む、とぼくはぼくに伝えた。
2021-01-31 08:26:17



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