余白再考4
- harunokasoilibrary
- 11月17日
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私は書を学び、作品をかくなかで、余白の存在に気づいてきた。初心のころは、古典主義的に、字間や行間や上下左右の余白を均等にそろえ、安定して、スッキリと見せるための技術と感性を養ってきた。そのような学習の過程で、余白というものに深い意味がある事に気づいたのである。余白は単なる白い空間ではないのではないか、装飾的にきれいに見せるだけのものではないのではないか、余白にこそ、作者のすべてが顕現するのではないか、そして最後に余白は人間性であると考えるようになったのである。人間性とは先に述べたとおり、作者の思想や理想やものの考え方や見方や感情のことである。
以下、私のいくつかの作品を見ながら、さらに具体的に考えを述べることにする。

図版左は「妖精のエチュード7」(2001年制作・49×29cm)である。「木」の一字がかかれている。ここでは余白よりも、「木」の点画に表現の重心が置かれている。余白は背景でしかない。
図版右は「夢みる小鳥」(2001年制作・62×49㎝)である。「鳥」の一字がかかれている。ここでは、余白は文字の背景から少し変化して、夢幻的な空間を作り出し、単なる物理的な空間以上の意味が創造されている。しかし、「鳥」の字形と点画の表現に重心が置かれていることは前の「木」と同じである。
私は「ファンタジー1」(「余白再考3」に掲載)をかいた頃、行間も字間も無くして余白をほとんど否定したが、どうしてもかけない箇所が出て来てそこを避けてかくことによって再び余白が出現した。そこで、おぼろげに、余白には深い意味があることに気づいたのだが、しかし、私の創作の主流は、まだ、余白を否定して強力な情念を表出することにあった。

上の図版は「薄明のなかで」である。「不思議」とかかれている。
ここでの余白は、森の中から見た外の光りのイメージである。絵画と同じ感覚でかかれている。まだ余白に深い意味はない。白と黒との対比が美しく描かれている。やや、余白に彼岸的な雰囲気は感じられるが、書を利用した絵画作品といったところである。

図版は「日本国憲法第九条」(2009年制作・5.4×2.4m)である。字間、行間をなくすことによって、条文にこめられた人間の情熱を表現しようとした。余白が背後に隠れることで、墨の香りも手伝い、黒々とした、強烈で暴力的な迫力が墨線から立ちのぼって来た。
平和のための憲法であるのに暴力的な力の表現になっているのは、表現内容と形式の矛盾ではあるが、私は強力な力によって暴力に抵抗する人間の運命を表現し、平和を願う大衆に協力したかったのである。政治的な題材であったため余白は脇役となり背後に控えなければならなかったのだ。まだこの時点では、余白の本当の意味を私は分かっていなかった。
余白は情念の表現には邪魔なものであったのだ。

図版は「世界人権宣言」(2010年制作・約2.4×20m)の部分である。この作品では、さらに字間行間がなくなり文字同士が絡み合っている。文字の点画間の余白が、背後に控えている本当の余白を暗示している。私はこの人権宣言を作り出した人類の中の優れた人たちと同じように、理性的に、一点一画、一字一字、タピストリーを織るようにかきあげていった。ここでは情念は背後に控え、大事は、理性であり理知であった。運筆の強弱により表れた線の細太、というよりも、私の高揚した気分によって引き出された余白の姿が、森の中の木漏れ日のように画面の一部を明るく輝かせている。余白は私の感情の起伏につれて明るくなったり暗くなったりしながら人類の理知と理想とエナジーへの称賛を奏でているのだ。

図版は「アイヌ神謡集」(2014年制作・6.6×2.5m)の部分である。
この作品は先の「世界人権宣言」と同列の作品だが、それよりも、さらに詩的に表現されている。言葉の内容がそうさせているのである。やはり、詩的な言葉に含まれる情念を表出させようと私はたくらんだのである。若くして亡くなった作者に成り代わって、その豊かな知性や感性と同時に無念さや哀しみを全面に押し出そうと表現したのだ。所どころに余白が見える。
この頃から、余白について何か閃くものがあった。激しく生命(いのち)の火を燃やした此岸の背後に静寂で幸せな彼岸があるのではないか、もう一つの世界がそこにあるのではないかと、私は制作しながら、おぼろげに感じはじめていたのである。
(つづく)
2017-01-26 15:53:38



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