余白再考2
- harunokasoilibrary
- 11月17日
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図版は17世紀オランダの画家レンブラントの自画像である。この絵には余白はない。対象に光をあて、対象を浮かびあがらせている。描かれた人物の背景は、対象を際立たせるための空間として表現されている。それは室内の壁までの空間を描いているのであろうが、私には、具体的な物を描かない抽象的な無限空間のようにも感じられる。これは一般的には余白とは言わないが、余白と同じものではないのか。レンブラントは具体的な人物を描きながら背景をぼかし、時空を越えた無限の生命を描いたのではないだろうか。

図版左は小川芋銭の墨画「夢中野千燈」である。舟で居眠りしている漁師が描かれている。
対岸では狐火が燃え、それが水面に映っている。漁師の夢なのか、幻想の世界が描かれている。水面や対岸や遠景の森には白い光のようなものが描かれているように見えるが、
描かれているというよりも、余白として書き残されているのであろう。その白が、
異様な光を発しているのである。森も森の樹々も対岸の土手も鏡のような水面も、
夢の中の桃源郷のような光につつまれている。これが余白の力である。白い紙は、
芋銭の理想によって異化され、時空を越えた、現実ではない夢の世界、人間と妖怪と自然が一体となった異界を実現しているのである。余白によって芋銭は、自分の
思想や理想や夢といった人間性を表現しているのである。
図版右も小川芋銭の淡彩画「海島秋来」である。近景には漁師たちの粗末な家と漁師とその家族たちが小さく淡彩で描かれている。中景には巨大な岩石海岸が、そして中景から遠景にかけて波立つ海といくつかの岩礁が描かれている。中景と遠景との間と遠景の岩礁の周りに白い余白がある。巌に砕ける波を描いているのだろうが、この白はそれだけのものではない。此岸と彼岸を隔てながら結びつけている「縁(へり)」を表現しているのである。岩礁も此岸であり周囲の白い余白によって彼岸の海と隔てられている。人びとはいずれ解放されて彼岸の海へと旅立つのである。岩石も岩礁も漁師たちも白い余白につつまれて、静寂の中に生活しているようである。
芋銭の余白は物と物とを際立たせると同時に、やさしく結びつけ、生死を融合する超自然の表現なのである。

図版左は小川芋銭の書「獣面聖心」である。画仙紙の性質を利用して、獣と聖で墨を含ませ、面と心を渇筆にして、潤渇の対比で構成された単純な作品であるが、それぞれの文字は、芋銭の墨画の岩礁と同じように、字の縁(へり)に波のしぶきが逆巻いているかのようである。ここでも余白は、彼岸と此岸を隔てながら、結びつけている。
図版右も同じく小川芋銭の屏風「桃花源」にかかれた文字の部分である。屏風には桃源郷の絵が描かれている。これはその絵の上部にかかれた文字である。文字の点画は、屏風に描かれた山の稜線、たなびく雲の輪郭線や樹々の幹などと同質の線質である。文字の周囲には、描かれた山々の谷間や林の樹々の間に漂う白い霞が漂っているかのようである。芋銭の書の字間や行間は、彼の絵画と同じく、微妙な間合いで配置された余白によって玄妙な世界を実現しているようである。

良寛の書「月の兎帖」の部分である。良寛にとって、かかれた文字が此岸だとするなら、文字がかかれるにしたがって生まれてゆく余白は、此岸と彼岸を結ぶ妙なるものであったに違いない。彼は感情をこめて楽器を演奏するかのように文字をかいていった。彼岸は余白の向こうに見え隠れしながら姿を見せる。彼岸には玄妙なる根源的なものがある。それは、彼にとっては、すべてを抱擁する母の幻視だったかもしれない。この作品にとって主役は文字の線ではなく余白である。文字の線は細く消え入りそうでもある。それに対して余白は、深く、温かく、悲しみを包むように存在している。良寛は自分を無にして、大いなるものに融合しようとしているかのようである。彼は美を求めてはいない。彼の人間性が文字の形を決めて行く。人間性とは、彼の思想であり、理想であり、感情であり、ものの見方、感じ方のことである。悟りを開いた立派な人格者のことではない。書は人間性である。良寛の特殊な人間性が、彼の詩歌書を通じて、超越的玄妙なものを感じとったのである。良寛にとっての余白は、その超越的玄妙なる根源に近づくための知的な手段であった。彼は、美のために生きたのではない。

20世紀米国の画家サム・フランシスのリトグラフである。
彼は日本文化の影響を強く受けているという。画面の中心に白く輝く部分がある。
余白と呼ぶべきか。作品のタイトルは「首切り」となっているが、この白く輝く
部分との関係が分からない。制作の構想の段階で、この白い部分を描くことを想
定して、画面の周囲から塗り込んでいったのであろう。森の中の重なる木の葉の間から見上げる空や、一面の曇り空に、偶然ポッカリ開いた雲の小さな穴から見える青空や、暗い室内の窓から見る景色など、このようなイメージは月並みである。
彼は東洋的な神秘を、この描かれていない部分に感じたのかもしれないが、しかし、
作為的な余白からは玄妙なるものを感じる事は出来ない。西洋人には、余白は珍しいものかも知れないが、それを描く必然性が彼等にはない。東洋の哲学者か誰かから禅などの話を聞き、その気になって描いたのであろう。余白の白は美しく描かれているが、ただそれだけである。切実なものは何も感じられない。
(つづく)
2017-01-24 18:55:17



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