top of page

モノローグ11『カラヤンがクラシックを殺した』宮下誠 光文社新書より つづき

  • harunokasoilibrary
  • 6月5日
  • 読了時間: 9分

「・・・カラヤンの音楽は、時代の病理や狂気に抵触しない限りにおいて、いわば音圧的に勝負できるものには抜群の適性を示している。彼らの音楽の持つ 憂鬱や諦念、絶望や狂気、怒りや悲しみ、総体的に言えば「世界苦(ヴェルトシュメルツ)」には全く触れ得ていないが、それでもなお上記のような楽曲には(オネゲルの交響曲やバルトークの管弦楽曲など)カラヤンのみが見出し得る発見があり、美がある。但しこの発見、人類の精神的成長に役立つかと言えば全くそうではなく、むしろ知的退嬰を招来するものであり、いわば人工甘味料のような欺瞞と危うさを内に孕んでいるのだが。


しかし、カラヤンの適性は何よりも通俗的な「名曲」や小品に向いている。・・・・・・


通俗名曲


『ウィリアム・テル』序曲をはじめとしたロッシーニの序曲集、組曲『ペール・ギュント』を代表とするグリークの小品集、『フィンランディア』や『悲しきワルツ』をはじめとしたシベリウスの管弦楽曲、ヴェルディらのオペラ序曲集、マスカニーニやレオン・ヴァッロらのオペラ間奏曲集、フェラーリやシュミットの小品、マスネの『タイスの瞑想曲』、ボロディンの歌劇『イーゴリ公』からの音楽や『中央アジアの平原にて』、チャイコフスキーのバレー音楽、ドイツ軍隊の行進曲集、数え挙げればきりがないが、カラヤンはこのようなショーピース的楽曲に、格別の才能を示す。率直に言って大指揮者とあろうものが通俗名曲にかまけている暇はない、と思うのが当然の判断と思うが、カラヤンは大衆の趣味嗜好に合わせて、定評のある、しかしすでに手垢の付いた陳腐な「名曲」をクリーニングし、ヴィーンフィルやベルリンフィルという極上のオーケストラをキリキリと締め上げて、最良の演奏を提供した。それは批判のしようのない見事な仕上がりだ。



しかし、これらの曲もまた、問いつめ、アナリーゼ(楽曲分析)を繰り返せば時代の証言としてのアクチュアリティを引き出すこともできるだろう。しかし、カラヤンはそのような方向には絶対に向かおうとしない。独自のスマート極まる手捌きの良さと、絹のような上品さでもってこれらの楽曲をコーティングし、貴顕(今では金満家の)のパーティに供されるシャンパーニュかボンボンのように口当たり良く、甘く、しかし甘すぎず、その絶妙な喫水線で勝負する。カラヤンの勝ちはすでに決まっている。しかし、ここにはなにも産まれない。悲しいほどに自己回帰的で、痴呆的だ。


『アダージョ・カラヤン』が証明するように、カラヤンの本質は、すなわち「大衆の時代」の当たり障りのない美意識の確立、踏み外すことのない「良識」の正当化、「カラヤンみたいになれればいいなあ」という、悲しくも切実な上昇志向と自己新神話化による負け犬的な羨望の醸成にあった。


 小品、通俗的名曲と軽く見ないほうが良い。カラヤンの戦略はこのような小品でこそ効果的にその役割を果たす。「大衆」はいよいよ愚かになり、「小さな幸せ」に満足し、今ある自分を慰撫的に是認する。


 繰り返すが、最もやりきれないのは、カラヤンが、そのような罪の張本人であることに対して全く無自覚だったことだ。


 その間に世界はいよいよ救いがたい蒙昧に取り巻かれてゆく。カラヤンの責任は限りなく重い。


踏み外してならないのは、私がカラヤンについて書いたことはカラヤン一人の責任ではないと言うことだ。私はここまでカラヤンについて書いてきたが、本書冒頭近くに断ったように、私の関心はむしろカラヤンの音楽に代表される現代的病理が、いわば「象徴としてのカラヤン」として現代にはびこっているという見まがいようのない事実にある。


カラヤンの罪は重いが、しかしそれを生み出し、是認し、受け容れた近代社会もまた同様の罪に問われなければならない。そこには私たちも含まれていることを忘れるべきではない。カラヤンは私たちと共同して、出口の見えない精神的貧困と絶望的思い上がりへといよいよ深く沈潜してゆくのだ。」「晩年のカラヤンは病と肉体の老いに苦しめられた。椅子に座って指揮することも多くなり、もはやトレードマークとなった瞑目しての指揮にも精彩がなくなっていった。カラヤンは焦っていたであろう。新人の発掘、自己の設立した会社の安定、家族への思い。


ベルリン・フィルハーモニーとの長い蜜月と、それに匹敵する長い確執も、ベルリン・フィルハーモニーのカラヤン追放劇でカラヤンの敗北は決定的となた。それでもなおカラヤンは、己の美学の徹底に執念を燃やし、また新しい価値観の創造にも目配りを忘れなかった。しかし、世の中は変わりつつあった。カラヤンが歯牙にもかけなかったニコラウス・アーノンクールが、古楽の旗手として擡頭し、カラヤン流の拡大しきった音楽的豊穣を嘲笑うかのごとき音楽を展開した(そのアーノンクールも今では、カラヤン並みに快楽追求的な音楽をやっているのだから皮肉なものだ)。新鋭の指揮者も続々誕生し、カラヤン以上の即物主義と、いささか頭でっかちではあるが、極めて要領の良い分析的で合理的なスコアリーディングの下、スタイリッシュな音楽を生産しつつあった。


多くの演奏家はカラヤンの演奏に反旗を翻し、同じように世界の絶望や苦しみに無自覚でも、カラヤンとは異なったやり方で音楽を作ることに執心した。・・・・・・・・最晩年、カラヤンの音楽がノスタルジックな色調を帯びていったのは間違いない。カラヤンは「古き佳き時代」を懐かしむような、黄昏の音楽を奏でるようになっていった。・・・それは懺悔のようにも聞こえるが決してそうではない。彼は「大衆」の無知蒙昧をより真剣に受け止め、彼らの「物語」への郷愁、わかりやすさへの無抵抗な偏りに敏感に反応し、結果、純ドイツ的な音楽をやるようになっていったのだ。スポーティな外観はそのままに、加えて巨匠然とした風格を自分にもその音楽にも持たせるように腐心した。しかし、それは決定的に間違っていた。遅すぎたのだ。いや、そうではない、カラヤンの美学には所詮このような方向付けは馴染まなかったのだ。最晩年の録音はひとしなみ、そのことを感じさせる。ブルックナーの七番目の交響曲は文句のつけようのない美演だが、白々しいことこの上ない。カラヤンはその最後に際して人類に最後の贈り物をした。それはもはやいかんともしがたい誤謬であった。カラヤンは最期まで「カラヤン」であり、人類を瞞着しきったのである。その意味でカラヤンの成し遂げたものは限りなく大きい。そしてカラヤンの罪は限りなく重い。そして私たちの無自覚の罪も。いまさらカラヤンを断罪してもはじまらない。時代はカラヤンの望むような表面の美しさに充ち満ちているが、その背後には、臓腑を抉られるような塗炭の苦しみと、汚物に塗れた精神の荒廃と、痴呆的に己の幸福に満足する、腑抜けた笑い顔だけが残された。・・・・・・・


(流線型の美学より)



下記の山田洋二の言葉の中の嘘に気づく読者が何人いるであろうか?おそらく,皆無だろう!



山田洋次監督 小津安二郎監督を語る (2002年1月15日)


小津作品と寅さんシリーズは、松竹にとって最も尊重すべき作品であり、これからも繰り返し上映し続け、未来に継承すべき貴重な財産である、というような話を松竹関係者からお聞きしたように記憶しています。今や小津安二郎監督と共に、松竹映画の至宝とも称される山田洋次監督ですが、意外にも若い頃は小津作品に否定的な見方をしていたそうです。



海外の映画ファンのみならず、日本国内でも小津安二郎の映画と黒澤明の映画ならば、黒澤映画の方が断然面白いという映画ファンが多いのではないか…そんな気がします。実は山田洋次監督も、長い間小津映画よりも黒澤映画の方を評価していたのです。小津映画など「いつも同じような話ばかりで、何も起きないではないか」と批判的な見方さえしていたとのことです。



しかし、ある時敬愛する黒澤監督が、自宅で小津映画を繰り返し観ていることを知り大変衝撃を受けたといいます。自分はこれまで、一体小津映画の何を観ていたのか、と恥ずかしい思いがしたと述懐しています。



私自身も全く同じで、若い頃はなんて退屈な映画なんだろうと思っていました。いつも最初の数分観ただけで眠くなってしまい、ウトウト居眠りしたあと目を開けると、同じような場面のままだったという印象しかありませんでした。これは、小津映画初心者の多くが感じる、正直な感想ではないでしょうか。



それが年齢を重ね、様々な人生の苦難や試練を経験した後に、ふとした機会に改めて小津映画を観たときに、これまでの印象は一変するのです。精神的な成熟度が増したとき、その味わい深さにようやく気付けるようになるのかも知れません。以下は、「巨匠たちの風景」(伊勢文化舎)から、山田洋次監督が小津映画について語った文章を抜粋したものです。



まさに、小津映画の神髄を見事に捉えていると思います。まだ小津映画の魅力に気付いていない多くの映画ファンにこそ、是非とも読んでいただきたい文章です。



山田洋次監督


若い頃、ぼくは変な映画だと思いましたね。たいして面白くもない、とても妙な映画でした。



小津さんの映画がどういうふうに奇妙かというと、それは独特のカメラポジションとか、パンがないとか、移動がないとかいろいろあるけど、要するに何ていうか、激しい感情の表現がまるでないってことですね。俳優が大声でゲタゲタ笑うとか、大声で泣くとか、怒って叫ぶとか、そういうことが一切ない映画なんですね。長口舌もふるいません。一人の俳優が一度にしゃべるせりふの量が決まってるんです。長いせりふをダーッとしゃべるなんてことはやらない。それから大事件が起きない。アメリカの映画なんか地球が滅ぶというような大事件までSFXでやるんだけども、小津さんの場合はほんのちょっとした波風、小津さんにいわせればドラマでなくってアヤだっていうんだけど、まさしく人生のアヤだけで映画をつくってる。



若者にとっては到底受け入れることができないというのは当り前です。若いのに小津さんの映画がいいというのは、よほどひねこびた奴ですね。それが年とると分かってくる。ぼくもそうでした。監督になって、ある年齢になってくると、すごいなこの人の個性はと思うようになってきた。



たんたんたる人の暮らしのちょっとしたエピソードを捉えて、人間全体を描こうとしているのかな。人生、社会までそこに浮かび出てくるっていうか。そこのところが小津さんの映画の偉大さじゃないでしょうか。小津さんの視点はピシッと決まっていて、とても細い穴のようなところから人間を見るんだけど、実は微細なくらしのアヤを描きつつ、全体がそこに出てくる。そこに映画を見る歓びを観客は感じるようになる。



『タイタニック』のように巨大な船が傾いて沈没する、乗客はどうやって死んでいくか、それを全部写しちゃうみたいなことで喜んでるっていうのは、ぼくはある意味で映画の衰弱だと思います。おそらく小津さんは、あの映画を見たら笑い出すんじゃないでしょうか。あれで人間が何もかも描けたと思うのは間違いだと思いますよ。登場人物が何百人いたって、実はあまり人間は描けてないってこともあるわけで、『タイタニック』が人生や社会をちゃんと描けてるかというと描けてないと思う。小津さんは細部を描きながら全体を描くことがができた希有な人なんでしょうね。


「巨匠たちの風景」(伊勢文化舎)より引用

2021-08-14 10:47:05

コメント


© 2025 Harunokasoi

無断の複製転載を禁じます

bottom of page