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備忘録1

  • harunokasoilibrary
  • 6月6日
  • 読了時間: 4分

ぼくは感性的な芸術に生きてきた者だから、理知的な哲学や思想は良く理解できないと思うけれど、言葉が政治や経済や


真実の愛などを誹謗中傷し、虚偽や偽善を正当化するために利用されているので、ぼくは偉そうなことを言えるような玉ではないけれど、出来るだけ言葉の真偽を把握するために、いくつかの言葉を検証してみたいと思う。


固より、平和や自由や平等や民主主義や人権や真実や愛を大切にしないような思想も人間も、ぼくには眼中にない!しかし、これらの概念は絶対的な真理などとも思っていない!普遍的な真理などとも、ぼくは思ってはいない。



マルクス『共産党宣言』1848年 より (堺利彦、幸徳秋水 共訳)



第一章 ブルジョアとプロレタリヤ


(1)在來一切の社會の歴史は、階級鬪爭の歴史である(2) 自由民と奴隷、貴族と平民、領主と農奴、ギルド(同業組合)の親方(3)と徒弟職人、一言にすれば壓伏者と被壓伏者とが、古來常に相對立して、或ひは公然の、或ひは隱然の鬪爭を繼續してゐた。そしてその鬪爭はいつでも、社會全體の革命的改造に終るか、或ひは交戰せる兩階級の共倒れに終るのであつた。



第三章 社會主義および共産主義文書



一 反動社會主義



A 封建的社會主義


・・・・・・


僧侶がいつでも、封建貴族と手を携へてゐたと同じく、僧侶的社會主義がまた、いつでも封建的社會主義に伴つてゐた。


 キリスト教の禁欲主義に社會主義的色彩をつけるのは、なによりも容易なことである。キリスト教は私有財産に對し、結婚に對し、國家に對して、熱心に反對したではないか。キリスト教はそれらの代りに、慈善と乞食と、獨身主義と禁欲主義と、僧院生活と教會とを説教したではないか。キリスト教社會主義は貴族の憤怒を淨めるために、僧侶が注ぐ聖水である。・・・・・・


・・・・・・


最後に、共産黨は到る處において、萬國の民主的諸黨派の團結と一致とのために努力する。


共産黨は、その主義政見を隱蔽することを恥とする。彼らは公然として宣言する。彼らの目的は、一切從來の社會組織を強力的に顛覆することによつてのみ達せられる。支配階級をして共産主義革命の前に戰慄せしめよ。プロレタリヤは、自分の鎖よりほかに失ふべき何ものももたない。そして彼らは、獲得すべき全世界をもつてゐる。


 萬國のプロレタリヤ團結せよ!



この共産主義思想は正しいのかも知れないが、感性的なぼくにはついていけないところがある。直観的にすぎないが、、嘘だと感じる。頭の良い人には解るのだろうが、現実を感性で捉えていないのではないか。理屈が先行していて、真実感じることを大事にするより科学的と称して理性や合理主義、抽象化された普遍的でもないものを普遍的真理などと称して、実感では本当の事は解らない、科学的でないから真理は分からないと・・・


嗚呼疲れる! 


頭の良い人は嘘も上手い、寺田寅彦の言うように、頭の良い人は恋もできない。愛や恋は非合理なものだからである。頭の良い人は感情的よりも理性的だから計算高い。計算高い人は嘘も上手いから、損することはしない、愛は犠牲だから・・・・・・



ぼくが備忘録を書こうと思ったのは、「宗教は民衆の阿片である」(カール・マルクス)という有名な言葉の真偽を知りたかったからだ。この言葉は、カール・マルクスの著書「ヘーゲル法哲学批判序説」に出てくる。この著書は1843年マルクスが25歳の時の論文だ。もう少し詳しく見ると「宗教上の悲惨は、現実的な悲惨の表現でもあるし、現実的な悲惨にたいする抗議でもある。宗教は、抑圧された生き物の嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である」である。


「宗教は民衆の阿片である」という言葉だけが有名で、宗教を全面的に麻薬だと言っているような印象がのこる。反共主義者が意図的に共産主義やマルクスを貶めようとして、操作しているのかも知れない?



「民衆の幻想的な幸福である宗教を揚棄することは、民衆の現実的な幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてもつ幻想を捨てるよう要求することは、それらの幻想を必要とするような状態を捨てるよう要求することである」(マルクス)



「天国の批判は地上の批判と化し、宗教への批判は法への批判に、神学への批判は政治への批判に変化する」(マルクス)


省略するが、マルクスの根本的な主張は、個人の信仰の自由と政教分離であるのに、部分の言葉だけを取り出すと、全く違ったものになってしまう。真実を隠そうとする人間たちが居るということか!


これらの民衆への愛溢れる表現も言葉に過ぎないから、当時の民衆の現実も並行して検証しなければならないだろう。




レーニンも、マルクスの「宗教は阿片である」という宗教観を引き継いだが、「いかなる宗教を信仰することも自由、またいかなる宗教を信仰しないことも自由」とすることを国家の基本原則としました。また、聖職者の入党問題についても、「党内での布教を目的とするのではなく、綱領に賛成し、共同の政治活動をする意思をもって」いれば入党を認めるという立場をとりました。(しんぶん赤旗」より)

2021-03-17 12:31:21

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