おとずれ
- harunokasoilibrary
- 4月5日
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朝早く、何百何千という蝉の声が聞こえてきた。傍若無人な鴉(からす)たちが、けたたましく奇妙な声で鳴き交わしながら小鳥たちをけちらして、家家や木木の上をあちこち飛び回っていた。一羽の鳶(とんび)が辺りを掃き清めるように優雅にグルッと一回りした。次第に蝉の声は巨大な火の玉のような一つの音になっていき、そしてそれは、音であることさえ止めて大きな流れの様なものに変わっていった。その名(な)づけることの出来ない静かで大きく深い流れの中に、私の心身は融けて無くなる様であった。このまま何時(いつ)までもこの流れの中にいたいと、私は恍惚として感じた。重なり合い燃え上がるような葉群(はむら)の中や外を蝉たちは狂ったように飛び回っていた。
飛び回る蝉たちには、悲しみも苦しみも喜びもないのだろうか。その様に感じる私と蝉との間には分離がある。蝉と私は別の物である。私は観察者であり蝉は観察されるものである。私は高等生物であり、蝉は私より下等な生物である。と、私は思っている。なぜ私が高等で蝉は下等なのだろうか。私には知能があり蝉にはないから。私の身体は蝉より複雑な構造をしているから。進化論がそのように説明しているから。いつのまにか刷り込まれた知識で私はそう考えている。私はあるがままの蝉を見ていない。知識のスクリーンを透してしか見ていないのだ。蝉は虫けらであり、その死体はゴミのように掃き捨てられる。蝉は針に刺され標本箱に整理整頓されてもよい物であるが、私はそうではない。高等な者は下等な者を生かすも殺すも自由である。人間の知性のなんと残酷なことか。私も蝉も生きている。私と同じ生命(いのち)がなぜこうも違う扱いを受けるのだろうか。私の生命と蝉たちの生命とは根本的に違うものなのだろうか。私とこの小さな生命たちとを分離するのは何なのだろうか。
私とあなたの間にも分離がある。あなたと私は別のものである。あなたはキリスト教者で私は仏教者。私は日本人であなたはアメリカ人。あなたは女で私は男。あなたは頭が良くて有能だけど、私はアホで何の才能もない。あなたはお金持ちだけど私は貧乏。あなたは有名で私は無名。あなたは眉目秀麗だけど私は醜い。指が一本多い少ない。目が見える、見えない。人間の間にもきりがないくらいの分離がある。
私は木木の葉や蝉の姿を見つめている。見つめているのは私の精神である。精神は葉のつき方や、その形や、周囲のギザギザを細かく観察している。蝉の色や翅(はね)の形の違いを正確に観察し、あれとこれとを分別している。それは脳の働きである。脳の中の精神の働きである。精神は知識でものを観察している。知識は過去に刷り込まれたものである。それは言葉やイメージで出来ている。その言葉やイメージは木木や蝉を細部にわたり分析し、分割し、分割したそれぞれに名前をつけて限りなく対象を認識していく。知識は記憶であり、記憶はすべて過去のものである。知識は、今生きて在るものを、過去のスクリーンによって、過去の眼によって観ようとする。それは死んでしまって今はもう無いものにすぎない。知識は死んだものである。それは観念にすぎない。すべて在るものは休むことなく動いている。動かないものは死んだものである。精神では今生きて在るものを観ることはできない。
私と蝉を分離しているのは精神である。それは知性であり理性である。知性や理性は立派な法律を作ったり、人間の在るべき道を示したり、理想をかかげたりもするが、言葉によって全てのものをバラバラに分離しもするのである。分離は暴力である。知性や理性にうったえ頼る人は、自己の中にある暴力に気づかない人である。美しい言葉や観念によって自己のあるがままの真実から目をそむける人である。欺瞞(ぎまん)と暴力に満ちたこの世界で利益を受けている人である。心から人間の解放を望んでいない人である。真実の愛のない人である。愛があれば、仏陀(ぶっだ)もイエスもクリシュナもいらない。経典も資本論も学問もいらない。それらは精神の幻想にすぎないから。精神は愛ではない。
人間から精神を取り除くことは出来ないが、しかし精神とは何か、正しく理解できれば、精神には精神の正当な居場所が見つかるはずだ。
木木と蝉たちと私を包んだ、大きく深い流れには分離はなかった。私は樹であり、樹は蝉であり、蝉は私であった。それはほんの束の間だったが、名づけることが出来(でき)ない融合があった。それが愛なのかも知れない。
真実の愛だけが、バラバラにされたこの世界を、多様で一つの、大きさのない世界に変容できるだろう。あるがままの世界にあなたが気づいたとき、それはあるがままのあなたに気づくという事だ。そのとき愛が訪れるだろう。
(2005年8月・会員つうしん第79号掲載)


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