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  • harunokasoilibrary
  • 4月8日
  • 読了時間: 5分

 線は無限である。森羅万象に線はある。注意深い心にはそれが見えるかもしれない。

 京都市の三方を囲む山は、遠くから眺めると柔らかいなだらかな曲線である。その山の中を歩けば鋭い線の岩があり、鴨川には円相(えんそう)のような円い線の石が転がっている。街の中を流れる川はゆったりとした曲線を描き、時には速く、また澱(よど)み、大小の岩や石によって流れの線を描く。その川面(かわも)に吹く風は、川の流れに逆らい、また従い、イワシ雲のような線を描き、その波紋はきらきらと柔らかく輝いて眼に優しい。緩やかな流れの中を流線形の魚が游(あそ)ぶ。釣竿(つりざお)と釣糸の描く弧線(こせん)は、小さな岩のような釣人と共に、静かな風景を形づくる。岸辺には寂(さ)びた幹の柳が、風の流れそのままに、この上なくしなやかな曲線を描く。

 鳶(とび)は風に乗って螺旋(らせん)を描き、高く高く上昇し、小鳥たちは優しい波線(はせん)を描き、こばしりに飛び去っていく。燕(つばめ)はすいすい線、鴨(かも)はバタバタ線、鴉(からす)はきまぐれな線を描き、鷺(さぎ)は真っ直ぐに体を伸ばし一直線に飛んでいく。鳩は群がって空に斜線を描く。蝶は乱舞して気ままな乱線(らんせん)を描き、バッタも蛙(かえる)も放物線を描いて逃げていく。彼岸花もカヤツリグサも花火のような線を描き、朝顔は巻きついて輪線(りんせん)を描く。木木は、天と地に、枝と根で線を放射し、大河は大地を蛇行(だこう)して扇状(おうぎじょう)に線を刻み海に注ぐ。太陽は雲間から光線を届け、夕暮れには湖面に黄金の線を描く。星星は果てもない空間に楕円を描き、限りない光の点になって哀れな人間の心に、無心の線を描く。

 これらの線は自他を分離する線ではない。それぞれの生命の動きをあらわすと同時にすべてを結びつける線である。それぞれの線には人知(じんち)を超えた深い意味があるのかもしれない。それは、私には解らない。しかし私はこれらの線を感じるとき言い知れぬ幸福を感じる。

  人間もさまざまな線を描いてきた。天球に線を引き、地球を経線(けいせん)と緯線(いせん)で区切り自分たちの位置を確認し、日付変更線で時間を調整し、電線や光ファイバーを張りめぐらし、インターネットが世界をつないでいる。しかし、国境線はいまだに世界をこまかく分離し、人種や民族や言語が人人を分け隔てている。現実には存在しない線を、人間はかってに作り出して、限りなく人人を分離していく。主権国家はそこに住む国民の利益のために他国の不利益をほんとうには顧みない。その国をつくっているのは我われ一人一人である。一人一人の心である。一人一人の、自己を拡張しようという心が、そのような国をつくり、人人を分離しているのではないだろうか。また、言葉は分離そのものである。言葉を使う我われ人間は分離のために生まれてきたようなものである。その分離の奥には何があるのか?そのほんとうの姿を見なければ混乱は日に日に烈(はげ)しくなる事だろう。

 

 「人類皆同胞」とか、「人類愛」とか「音楽は世界を結ぶ」とか「東西の融合」だとか、これらの美しい、体裁(ていさい)のよい言葉は、観念にすぎない。多くの指導者や政治家や芸術家や著名人と称される人人がこのような言葉を語り、行動しているが、それらは欺瞞(ぎまん)であり、決して人人を結びつけることは出来ないであろう。かれらの行動と饒舌(じょうぜつ)は自己の満足のためなのではないだろうか。自己の嘘を見ようとしないかれらは、決してそうは言わないだろうが、かれらは心底から人人の幸せを望んではいないだろう。なぜならば、かれらは分離されることによってこの世界で利益を受け、自己を拡張し、この腐敗した秩序の中で、しかるべき位置をしめている人人だからである。かれらは表面的な変化には同意しても、この世界が根本的に変革されることを望んではいないからである。

 根本的な変革とは、社会の制度をより良く変えることではなく、利欲(利己)で積み上げられてきた幾万年の人間の歴史(過去)に終止符を打ち、それとのつながりを断ち切り、愛によるまったく新しい文明をつくることである。それは、組織によっては決して実現できないであろう。なぜなら、組織することは組織されていない他の人人との間を分離することであり、他の組織との間に対立を生む事だからである。分離のあるところ愛はない。また、組織には組織する目的があり、それは集団による野心であり、野心は利欲であり、利欲のあるところ愛はない。ほんとうに新しい文明はあなた自身の中(うち)にある虚偽に気づくことから始まるのではないだろうか。その虚偽に気づけば、あなたの周りにいる政治家や指導者や教師の、体裁のいい美しい虚偽にも気づくことであろう。そこから、ほんとうに新しい、愛による文明が始まるのではないだろうか。社会の制度を変えてもよいが、それが始まりではなく、制度を変えようとするあなた自身がまず根本的に変革されていなければそれは偽善であり、過去の人類と同じ嘘をくりかえすに過ぎない。そこからは、決して、ほんとうに新しい、愛の溢れた文明は生まれず、人間の悲惨と混乱は日に日に増幅されるであろう。そして、愛のない世界は終(つい)には消滅するしかないであろう。

 言うまでもなく、書の線は人間が描くものである。書の線は人間が描くさまざまな線の一つに過ぎない。人間の線は自然の線と測りあえることができるだろうか。人間の描く一本の線には、どうしようもなく描く人の心が染み込んでいる。我われ人間は、愛のこもった、ほんとうに美しい線を描くことができるだろうか?伝統の権威に囚(とら)われた心は決してそのような線を描くことはできない。なぜなら、権威は人と人を分離するものだからである。分離は暴力である。暴力のあるところほんとうの愛はない。そして我われの心の中から利己と野心がなくならない限り、そのような線は決して描くことはできないであろう。

 私はたまたまこの国に、この時に生まれてきただけである。私は日本人ではない。黄色人種ではない。現代人ではない。たまたま日本語を使っているにすぎない。私には国家なんてものはどうでもいいものである。日本語もどうでもいいものである。肌の色も眼の色もどうでもいいものである。少なくとも私の心理はそのようである。精神的に私はどこにも所属してはいない。私は地球上にいるすべての人人と同じ一人の人間にすぎない。そして、私の中にも自己拡張の心がある。

(2005年10月・会員つうしん第80号掲載)


(愛)


 
 
 

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