陰陽転転1
- harunokasoilibrary
- 2月16日
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更新日:6月1日
最初の個展あたりからぼくは二つの相対する価値観を内在していたように思う。アンビバレンスと言ったらいいか。
ぼくの作品「生命」で描いた、森羅万象には優劣はなく平等だと、皆つながっている、孤立したものはないと、また言葉、書法は明確で理知的、偶然性はなく計画的、科学的な面と、シュールのオートマティックやポロックのようなドロッピングやロスコなどシュールレアリズムや抽象表現主義の偶然性とが内在していたように思う・・・

長年ぼくは、この造形主義やモダニズムを超えようと藻掻いていた、そして言葉や読むことを否定した作品が生れたけれど、作品の説明をすること自体が矛盾しているので解説も、何が書かれているかも言えない。マレーヴィチのシュプレマティスム(絶対主義)のように色や形や意味を否定し書であることも否定しようとしたのだが・・・
最新の作品で灰色のもやもやしたガスの様な中に白い点の様なものや何かが在るのだが、これらのイメージは偶然生まれてきたように感じていたが、そうではなかった。このイメージはまだ明るい昼の薄暗い空の雲を疲れてボーと眺めていたら白い球体が一つ、それから二つ、三つと日に日に増えていったのである。薄いガスのような雲の背後には眩しいくらいの白い太陽が輝いているのだろうけれど、それを見ていると何か嬉しくて、単なる物理現象に過ぎないと人は思うかもしれないが、何もかも憂鬱な悲しいことが消えて無くなるような希望がうまれてくるのだった。生あるもの死は避けられないが、永遠の光に包まれているような幸福な気持ちになるのだった。これは事実だが、これらのイメージは風化した墓碑や硯の陸から生まれたのだ。目の前の具体的なモノがヒントになって作品は生まれてくるようだ。
マレーヴィチのように色や形を否定して新しい絵を産み出して絵を否定しようとしても、そうすればするほど絵になってしまう、何もない白や黒だけの純粋な世界を実現したと思ったらそれは絵の原点に舞い戻ることだった。純粋になればなるほど絵からは離れられないのだ。絵の終わりは始まりであった。
ぼくは、画家ではなく書家だから?書に置き換えて考えなくてはいけないだろうか。
線や形や書かれている文字の意味や墨色を否定しても結局は書の原点に戻って仕舞う。何らかの線や形や墨色がある限り、書の否定は書の原点に舞い戻ることになるのだ。白い太陽も黒い太陽も同じことなのだ。ぼくは最初の個展から何度も白黒の対比を書いてきたが、それは幼少の頃見た白い点や光からはじまっていたように思う。宇宙の果てにあるような白い点は何なのだろうか?
白い点を包んでいるガスは荘子のいう「罔兩」なのか。
(2022年4月 会員つうしん第179号掲載)


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