遊中国記―芸術美と自然美を尋ねて―
- harunokasoilibrary
- 5月24日
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更新日:5月31日
10月から11月にかけ3週間余り中国の江蘇省、浙江省、湖北省、湖南省、上海などを歩いた。2年前と同じく、あの時は左脚の脛骨(けいこつ)だったが、こんどは右脚の脛骨が疲労骨折し、負傷しての帰国となってしまった。しかし、誰の助けも借りずに自力で関空(かんくう)に着けたことが嬉しかった。
医者によると全治3ヶ月とのことで、今もまだ松葉杖の助けをかりて歩いている。年齢のことを考えに入れなかったことなど、計画が甘かったことを反省している。それにしても、数十万歩あるいただけで骨折するとは、自分の脚の弱さにつくづく嫌気がさし、これが限界かとも思うが、しかし、まだまだ歩き足りないので、休息を上手くとるとか、脚を強くするとか、なんとか工夫して、歩き続けようと考えている。
とにかく大陸は広大で、飛行機や火車や巴士(バス)や車を利用して移動するのだが、NHKなどのおかかえ文士ではない、ぼくのような孤独な旅人には節約して歩くことが旅の基本である。しかし、今回のように負傷すれば、検査費用や治療代、入院費などの出費がかかり、節約どころではなくなる。それでも歩くわけは、節約のためだけでなく、自分の脚で歩いて、はじめて見えてくるものがあるから歩くのでもある。

なぜ旅をするのか、人によって、その理由はさまざまであろうが、ぼくの理由の一つは、一つは、と言うより、すべてと言ったほうが良いかもしれないが、芸術美と自然美を尋ねることが第一の目的である。ほかに、珍しいものを見たいとか、未知の世界に触れたいとか、世界を肌で感じたいとか、さまざまな好奇心のようなものが僕の中に渦巻いていることも、また大きな動機ではあるが。
鎮江(ちんこう)では、北固山の甘露寺で米芾(べいふつ)の石刻と阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)の石碑を見学し、瘞鶴銘(えいかくめい)を見るために焦山(しょうざん)に渡った。焦山は長江(ちょうこう・揚子江)の中にある小島である。島の頂上にある万佛塔から雄大な長江を眺めた。
その後、鎮江から揚州(ようしゅう)までフェリーで長江を渡り、揚州八怪紀念館(ようしゅうはっかいきねんかん)
上海では上海博物館、外灘(バンド)、福州路の用具屋、朶雲軒(だうんけん)や豫園(よえん)などを見学、蘇州(そしゅう)では寒山寺(かんざんじ)や拙政園(せっせいえん)を、杭州(こうしゅう)では白堤(はくてい)を歩き、西泠印社(せいれいいんしゃ)や西湖(せいこ)を見学した。

ハードな行程にも耐えた、逞しい同行者たちと別れて、一人湖州(こしゅう)へ向かう。湖州は湖筆の発祥の地であり、趙孟頫(ちょうもうふ)の生誕地でもある。湖筆博物館と趙孟頫紀念館を見学し、宜興(ぎこう)へ向かった。宜興は陶都とも呼ばれる紫砂壺(しさこ)の産地である。第一の目的である封禅国山碑(ほうぜんこくさんじ)を見て、南京(なんきん)へと向かった。南京博物院は工事中で閉館であった。中山門(ちゅうざんもん)を見て、明孝陵(みんこうりょう)で「大明孝陵神功(だいみんこうりょうしんこう)聖徳碑」などを見、南京市博物館を見学してから武漢(ぶかん)へと向かった。武漢では黄鶴楼(こうかくろう)や東湖(とうこ)や湖北省博物館にある総重量5トンもある曽侯乙編鐘(そうこういつへんしょう)などを見学し岳陽(がくよう)へと向かった。岳陽では岳陽楼(がくようろう)に登り洞庭湖(どうていこ)を望んだ。洞庭湖は琵琶湖の4~28倍もある中国一、二の淡水湖である。岳陽から長沙へと向かう。長沙にある湖南省博物館は、工事中で閉館。岳麓山の麓にある岳麓書院(がくろくしょいん)と李邕撰書(りようせんしょ)の麓山寺碑(ろくざんじひ)を見て、岳麓山中にある麓山寺と禹王碑(うおうひ)を見学し、翌日の早朝、衡山(こうざん)へ向かった。衡山は南岳(なんがく)とも呼ばれる五山の一つ。頂上まで登ったが登るほどの山ではなかった。

翌日の早朝、衡山から耒陽(らいよう)へ向かった。耒陽は蔡倫(さいりん)の生誕地である。蔡倫園の中に蔡倫紀念館があり、その中に蔡侯祀や蔡倫之墓があった。園内の蔡倫造紙作坊内に谷朗碑(こくろうひ)があった。市内の耒陽一中にある杜甫の墓を見学して衡陽へ向かった。翌日、バスで祁陽県浯溪(きようけんごけい)へ向かう。顔真卿(がんしんけい)の磨崖石刻「大唐中興頌(だいとうちゅうこうしょう)」を見るためである。この辺りは瀟湘八景(しょうしょうはっけい)の地であるが、湘江(しょうこう)は濁った河であった。

浯溪から衡陽に戻り、鉄道で南昌(なんしょう)にむかった。
南昌では八大山人紀念館(はちだいさんじんきねんかん)と江西省博物館に行ったが、行くほどのところではなかった。
南昌から九江(きゅうこう)へ。
翌日、九江からバスで廬山(ろざん)へ向かったが、脚は最悪の状態になりつつあり、登山は諦めた。数時間歩き回って、山の空気を感じるのが精一杯。廬山を下山して九江へ戻り、鉄道で廬山駅まで行

き、陶淵明紀念館(とうえんめいきねんかん)に立ち寄り、寝台車で杭州東まで行き、乗り換えて、紹興(しょうこう)に着いた。紹興駅前からバスを乗り継いで蘭亭(らんてい)へ。蘭亭は20数年前に訪れた時に比べ、廃れているように感じられた。蘭亭から紹興駅に戻り、バスで青籐書屋(せいとうしょおく)へ。紹興は徐渭(じょい)の生誕地であり、青籐書屋は徐渭の故居(こきょ)である。郊外には墓もある。紹興は魯迅(ろじん)の故郷でもあり紀念館や故居があるが、脚の状態が最悪になってきたので見学は諦めざるを得なかった。
翌日、紹興北駅から高鉄で上海虹橋へ。地下鉄で浦東空港へ行き、そして関空へ。夜遅く京都に着いた。
以上、ザーと述べてはみたけれど、こんな淡白なものではない。もろもろ塾での報告が15ページにもなってしまうほど内容は濃かったのである。しかも、レジュメが15
ページといっても、話した内容はもっと多かったのは言うまでもない。それも、感じたこと見たことのほんの一部に過ぎない。

大勢の中国人はうるさくて、マナーはなっていないし、街は汚くて臭い。何日も居られたものではない。しかし、そうでない人たちも多かった。感じが良く、親切で、笑顔の美しい多くの若者に出会った。中国の若者を見ているかぎり、中国の未来は明るい。汚れた服を着ている田舎の人たちも、こちらが笑いかけると、親しみのある笑顔が必ずかえってきた。電車やバスの中でも、鉄道の切符売場でも、ユーモアの分かる人びとの、優しい笑い声に何度か包まれて、助けられた。3年つづけて中国のあちこちを歩いたが、日本のマスコミが言っているような暴動やデモに一度も出合ったことがない。ウイグル自治区やチベット自治区には行っていないので、そちらのほうではあるのかもしれないが、日本のメディアは嘘の報道をしているのであろう。原発の嘘報道を何十年もつづけてきたことを思えば、彼らが嘘報道をしてもおかしくはない。結果、中国に親しみを感じない日本人が80%以上にもなったのではないか。これは犯罪行為だとぼくは思う。だれが彼らを罰するのか。2年前も昨年も、勇気をもって旅立とうとした、ぼくたちの足を引っ張るような言動をした、多くの家族があったが、腹立たしい限りであった。心配のあまりだろうが、メディアに踊らされ、中国人を貶めるような発言をして、人間の真実を、自分の目で見、耳で聴こうとしない者が、何を創作するというのか。端(はな)から出来るわけがない。
(2013年12月・会員つうしん第129号掲載)

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