言葉と再生
- harunokasoilibrary
- 5月5日
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更新日:5月31日
正月に、雪は降りそうもなかったが、雪色の室生寺(むろうじ)の五重の塔がみたくて、思い切って奈良に出かけた。室生寺の五重の塔や仏像に出合うことを、ずいぶん昔から夢にみていたのである。天理のあたりで空を見上げてみると少し雪の気配がしたが、奇跡でも起きない限り降りそうもなかった。しかし、僕には解っていた。何かが呼ぶような気がしていたから。はたして、室生寺に着いたとたん、急に牡丹(ぼたん)雪が降り出した。静かな雪であった。前が見えないくらい降ったけれど、五重の塔の前に来ると、雪はほとんどやんで、五重の塔は夢のようにうっすらと雪化粧をしていた。それは観音様の化身のようであった。手が凍えそうだったが、暖かい光が射しているようであった。初めて来て夢にまでみた雪化粧の五重の塔が見られるとは、僕は本当に幸せ者である。あちこち見て歩いて、山を下りる頃、また白いカーテンのように雪が降り出した。身体(からだ)じゅうが凍えてしまいそうであった。
寺の本堂で墨蹟展(ぼくせきてん)をやっているらしいけれど、いまどきの坊さんの書などみたくもなかったし、しんどくて、早く帰りたかったが、しかし、親切な受付の女性や観音様の化身のような寺の佇(たたず)まいに、何か大切なことを忘れているような気がして、吹雪の中、足は人の気配のない寒寒(さむざむ)とした本堂に向かっていた。小さな会場には誰一人いなかった。部屋の周りにぐるりと、まじめで陳腐(ちんぷ)な坊さんの作品が掛けられていた。墨の香(かおり)が微かにただよう清潔な寂しい会場であった。坊さんがストーブを持ってきてくれた。その坊さんの話では、こんなに降る雪は珍しいそうである。僕はストーブの礼を言ってから、ゆっくりと、さほど多くない作品を観て歩いた。足の底が凍りつくような畳の上を歩いていると、頭まで凍りついたのか、先ほどまで、わけ知り顔で、いまどきの墨蹟を軽くみていた自分が情けなくもなり、雪のように白い自分にもどって一点一点無心にみて歩いていた。その中に、小さいものだが、確信に満ちた筆づかいで異様に迫ってくる作品があった。そこには「如実知自心(にょじつちじしん)」と書かれていた。凍りついた心に赤い太陽が射しこむようであった。すべてが了解された。この言葉に遇うために、僕は雪の中を凍えながら、こんな遠方までやって来たのだと。室生寺の美が導いてくれたのであろうか。僕は、満ち足りた、不思議な気持ちで、宝物を胸に帰路に着いた。言葉は思いがけない所にころがっているものである。
「世界人権宣言」は「憲法第九条」を書いた時に、すでに僕の中で作品化が約束されていたが、しかし、この宣言の本当の意味や存在価値が、僕に解っていたわけではない。僕は「日本国憲法」の柱は「平和」と「基本的人権」の二本だと考えていたが、しかし、平和と自由の基礎は、基本的人権を完全に守ることでしかありえないという確信が始めからあったわけではなかった。おおすじにおいて、「世界人権宣言」は書くだけの価値があり、書かねばならないとは感じてはいたが、その本当のスケールを理解してそのように感じていたわけではなかった。それは絵に描きたくなるような、一つの大きな美しい森のようではあったが、森の中を僕はまだよく知らなかったのである。そこで、森の中に入り、一本一本の木や生き物たちの様子を詳しく観察することから始めねばならなかった。森の中に入ると、外から眺めていたときには解らなかった生命進化の実相(じっそう)が見えてきた。一木一草(いちぼくいっそう)、木(こ)の葉一枚、土くれでさえ尊い存在であり、価値のないものなど一つもないことが解ってきた。
森を形づくっている言葉は、人間により果てしなく繰り返されてきた殺人の歴史、無知蒙昧(むちもうまい)で貪欲(どんよく)な人食(ひとくい)の歴史、たびかさなる飢えと恐怖の経験など、救いがたい人間の現実への絶望から生まれてきたものである。限りない破壊と絶望の中で、人間は決して諦めなかった。人間に救いがあるとするならば、愛想がつきるような絶望を越えて再生の言葉を創りつづけてきたことであると僕は思う。今から60年前に作られた「世界人権宣言」は人類の希望である。ついに人間は絶望を乗り越えてこのようなステージに立ったのである。その言葉にこめられた願いは未だ実現には程遠いとしても、このような言葉を生み出した人類を、僕は尊敬せずにはいられない。そこに刻まれたどの言葉も、血のにじんだ絶望の結晶である。言葉はむなしいものではあるが、言葉を透(す)かして感じることのできる、言葉の背後にある、目には見えない何かを、僕は尊いと感じるのだ。
「如実知自心」は、「大日経(だいにちきょう)」の中にある言葉である。「本当の自分の姿を知る」という意味だが、そこで言う本当の自分の姿とは、怒ったり罵(ののし)ったり疑ったり嫉(ねた)んだり怨んだり奪ったりする姿ではなく、優しく慈悲深い仏の姿のことである。これは、ありのままの美しい自分に気づき、生きとし生きるすべてのものと共に、助け合い、元気に生きつづけなさいという意味の言葉である。僕は信仰心のかけらもない人間だが、この言葉に出合った若き空海が、人間の現実に対する絶望から立ち上がり、自己と世界の再生に向けて、この言葉の真の意味を体得するために、死と嵐と希望の海へ船出した姿に、あれやこれやに失望してきた人間として共感せずにはいられない。
人間は信用できない。その心はころころ変わり、約束はいつも破られ、あてになるものなんかどこにもない。愛などどこにあるというのか。人間ほど身勝手で醜い者はない。年中罵り合い争っている。人は孤独なものである。希望という言葉が陳腐に響く。
それはそうかもしれない。ほとんどそうであろう。このままでは、破局は時間の問題である。

しかし、今日(きょう)まで人間は、絶望の果てにかならず進化した言葉の世界を創造し、廃墟のなかから希望と共に立ち上がってきた。何度たおれても、絶望の淵から人間性を再生しようとする人間の強靭な生命力に、僕も一つのパワーをつけ加えたいと思う。
(2010年4月・会員つうしん第107号掲載)

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