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芸術の必要条件

  • harunokasoilibrary
  • 6月21日
  • 読了時間: 5分

 私は、私を芸術家だと思ったことは一度もない。

 なぜなら、芸術ないし芸術家について、私は何も知らないからである。

何も知らない、とは、やや極端かも知れない。芸術について確信的な見識がない、と言ったほうが正確だろうか。

 そもそも、芸術について、私は深くつきつめて考えたことがあるのだろうか。

 正直なところ、美学者でもなく、考えることの嫌いな私は、あまり考えたことはない。

 世間で芸術作品や芸術家として紹介される「もの」や「人」をみてもピンとこない。

 それらは、私にとっては、くだらない、あってもなくてもどうでもいいもの、知り会いたいとも思わない魅力のない人間がほとんどである。

 実は、自分を芸術家かも知れない、と思ったことが一度だけあったことを記憶している。それは、私が二十代初めの頃のことである。

 自分を見失い、どう生きていったら良いのか、何をなすべきなのか、自分とは何者なのか、生きつづけることに何の意味があるのか、と、暗い森で己を見失い、道に迷ったダンテのように八方塞がりだった時、光りを求めて、手当たりしだいに読書した中の一冊の芸術家の評伝に、私そっくりの人間を発見したのである。

 その芸術家はミケランジェロ。評伝の著者はロマン・ロランであった。

 そこに描かれたミケランジェロは偉人ではなく、優柔不断で臆病な、恐怖や不安におののく、弱い、かっこ悪い、人間であった。

ミケランジェロ「最後の審判」の自画像部分
ミケランジェロ「最後の審判」の自画像部分

 私はこの評伝を読んで、はじめて、おぼろげながら、自分を、この芸術家のような、なさけない生き物かも知れないと感じたのであった。

 結果的に、私はこの書物から、勇気と希望をもらって、自分のような出来の悪い人間でも、何か世の中のために役立つことができるかもしれない、と生きつづけたのであった。

 その後、芸術を仕事にし、芸術が仕事に成りうるとしてだが、ミケランジェロの偉大さも認識し、自分がこのような偉大な芸術家と同じだなんて不遜なことは思わなくなり、この若い時以外、私は自分を芸術家だと感じたことは一度もない。

 それにしても、芸術とは、また、芸術家とはなんなんだろうか。

 私が考える芸術の必要条件を基に考えてみよう。

 第一条件、芸術はお金では買えないものである。

 なぜなら、芸術は人間の「心」(思い)の表現だからである。人間の思いはお金では買えないだろう。今の日本の政権のように、自分の権力を維持するため、人間の足元をみて、お金をばらまくことで一時的に人間を支配することはできるだろうが、その行為は人間性の堕落であり、人間を侮辱し貶めるものであるから本物の支配ではない。お金では尊敬や本物の心を買うことはできないだろう。

 人間の心の表現に無関係な芸術(そんなものは芸術ではないのだが)が、人間の虚栄心を慰めるだけの壁飾りや装飾品として、また高価なことを誇って、芸術の名のもとに売買されているが、これらも芸術を語る偽物である。

 芸術は空や海と同じように、所有する必要のないものである。芸術作品にこめられた心が、その心に共感する他者の心に伝わることが芸術作品の願いのすべてだからである。

 人間の思いとは何であろうか。それは人間性のことである。しかし、人間性は人間だけにあるかどうかは分からない。私は人間以上の人間性が人間以外の生命体にあるように感じているが、しかし、今、ここでは、人間の心を表した本物の芸術に限定して考察したいと思う。

 何十億円の価値があるとか、国宝であるとか、希少価値があるだとか、すべてをお金に換算して芸術作品の価値をはかる愚行は、無意味な虚しい行為である。博物館や美術館が競争して大金を出し、名作を購入し、それを高い入館料をとってみせるなどという行いも芸術(人間の心)をお金の前に貶める愚行である。このような博物館や美術館の在り方は根本的に考え直すべきであろう。本物の芸術作品が、すべて無償で公開されることを私は切に願う。

 第二条件、芸術は公権力から「独立」したものである。

 なぜなら、芸術に表現された人間の思い(心)は、一切の差別のない平等な心だからである。愛とは何か、私には分からないが、あえて述べれば、本物の芸術は、愛以外の何ものをも含まない、と私は感じるからである。本物の芸術はすべて愛でできているといっても良い。

 歴史の表面を一望すると、いつの時代にも、芸術家は時の権力者に奉仕しているように見えるが、そのような芸術家や芸術作品が本物の芸術かどうかは分からない。思い込みをすてて、既成の芸術史を見直してみなければならないのではないだろうか。私は歴代の有名な芸術作品に卑しい人間の心を感じることが多いが、本物の人間性をあまり感じたことがない。過去をすべて否定するつもりはないが、残念ながら、意外と本物の芸術は少ないかも知れない。お金と権力から自由な芸術がどれほど歴史上に残っているだろうか。本物の芸術を探して人類史のすべてを見直さねばならないと思う。

 第三条件、芸術は「誠」でなければならない。

 なぜなら、第一、第二条件を満たす芸術であるなら、当然、真心から生みだされたものであるからである。「誠」とは真心のことである。本当の人間の思いということである。芸術作品には作為があるものだが、作為は技術といってもよく、「誠」とは矛盾しないものである。芸術が芸術になるためには作為を超えて「無心」に至らなければならない。無心は「無私」といってもいいが、「無私」は先験的に与えられるものではない。作為の果てに出現するものではないだろうか。「無私」は「誠」でもある。

 第四条件、芸術は「自在」でなければならない。

 なぜなら、作為の果てにある「無私」であるならば、大地のように、水のように、火のように、風のように、時空に応じて、その姿形(すがたかたち)を自由自在に変化させられる能力がなければならないからである。「自在」とは技術を感じさせない技術が具わっているということである。本物の芸術作品は弛まぬ修練なしでは生まれてこないものである、と私は思う。

 何とか頑張って芸術の条件について、いくつか考えてみたが、それによって私の作品や活動を検証してみると、芸術の域に達するには程遠いことが分かる。私は、もう諦めてもいい年齢になってしまったが、一点でもいいから本物の芸術作品をこの世に残したいと執念深い。だからといって、先の四条件を満たすことができるかどうか、今の私には分からない。

(2018年6月・会員つうしん第156号掲載)

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