自己表現と個性
- harunokasoilibrary
- 2月26日
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更新日:6月1日
子ども達の書いた字を見ていますと、子どもたちの顔が、現在のところひとりとして同じ顔がないと同様、その書き文字もひとりとして同じものがないように感じます。生まれながらに、否、生まれる以前から、人間はたったひとりなのかもしれません。孤独という悲しい意味だけではなく、自分は自分だけという意味で、かけがえのない自分という存在のことをいっているのです。生まれながらにして人間は個性をもった存在のような気がします。否、個性は生まれながらにあるのではなく学習をし競い合って技能を磨く中で優れた人間だけにあたえられる特権なのだと言う人もいるようですが、ぼくにはそれはエリート主義のような気がします。何か不快なものを感じてしまいます。もしもそれが科学的真理だとするなら人間とは、それだけのものなのでしょう。エリートだけが活気づくような世界に、ぼく達は住んでいるのかもしれませんが。
個人的なことをいいますと、ぼくはこどもの頃からエスケープばかりしてきましたので、このような世界には住みたくなかったのだろうと今こどもの頃のことを想ったりもします。それはともかく、個性についての考え方はいろいろあるでしょうが、ぼくは人間は磨かれる前から個性を持った存在なのではないかと思っているのです。だからこそ人間は何らかの形で自己を表現したい存在なのだと思うのです。優れた人間だけが自己表現したがるのではなく全ての人間は個性を持って生まれ、生まれながらに自己表現をしたいと願っている生きもののように思います。
ところで自己表現には表現手段が不可欠です。表現する手段がなければ表現したくても表現しようがありません。普通、ぼく達は、音や形や色や言葉に、ある感性を持っていて、自己に一番適したものを自力で表現手段にしますけれども、自力で表現手段を見つけられる人ばかりではありません。自力では見つけられない人も多く生きています。仮に、音も形も色も、言葉も感じることのできない人はどうしたらよいのでしょうか。
《ある人に表現する手段をあたえ、それをやるように励まし、そして表現されたものを受けとめてやる。そうすれば、自力では自己表現する道が絶たれているような人も、あらためて表現を始めるようになる。》
これは大江健三郎の言葉ですが、ここに解答があると思います。自力で表現手段を見つけられない人になんらかの表現手段をあたえ、その表現されたものを心から受けとめてあげるなら、どんな困難な状態にある人間でも表現する行為を始め、そして表現しつづけることでより人間らしく生きつづけることとぼくは信じます。かように人間は、どんな人でも表現するために生きているといっても過言ではないように思います。生きているから表現するといってもよいのですが、これも表現手段あっての話です。
自己表現の行為の一側面を考えてみますと、自己表現するとは、自己の存在を確かなものにするということではないでしょうか。確かに自分は生きている、生きてここに存在していると確信する行為のことといったらよいでしょうか。それは同時に他者の存在をはっきりと意識し、その存在を認め、他者なしには自分も存在し得ないことに気づくことでもあり、また自己と同じように他者もかけがえのない存在なのだと気づくことでもあると思います。しかし表現手段さえあれば万事よしというものでもないようです。最近の少年による度重なる凶悪な出来事は、自己の存在確認のための最悪の表現手段による自己表現のようにも見えますが、しかしむしろそれは表現手段を持つことのできなかった狂った人間の叫びのようにもぼくには思えるのです。凶悪犯の少年達は音も形も色も言葉も感覚することができた人間ばかりのようですが、彼等のそれまでの短い人生において学校でも家庭でも誰ひとりとして彼らに表現する手段を教え、それをやるように励まし、そして表現されたものを心から受けとめてあげる人がいなかったのだと、ぼくは想像します。そうではなく、このような殺人もまた表現手段の一つだとするならば表現手段を得るだけでは不充分で、その表現手段の質が大切な問題になってきます。しかしやはり殺人は、表現手段ではなく、表現手段を得ることのできなかった者の表現手段の裏返しの表現のような気がします。やはりこれも表現なのか。
例えば「書」という手段を得た人は、紙に一枚一枚書いてその表現手段を磨きあげていくわけです。手に入れた手段を磨きあげていく過程でその人の生来の個性が磨かれていくのだと思います。次第に個性がはっきりと表に出てくるようになると思うのです。そうなるまで磨いていくと、自己というものがはっきりと見えてくるようになり、その人らしい、その人以外の誰でもない語り口や身振りがあるように、書き手の声までもが、表現されたものから立ち上がってくるようにもなるのではないでしょうか。表現手段をあたえられたら、見つけたらといってもいいですが、それを磨かなければやっぱり個性はあっても表には出てこないのではないでしょうか。表現手段を手に入れた人はまず自分自身の心身を生きいきさせなければなりません。自己を発見し、自己の存在を確かなものにしていくのですから生きいきしないわけはないのですが、時には落ち込んだり浮き沈みしながらもいろいろなものに励まされ、長い目で見れば、次第しだいに活気づいていくものだと思います。そのような人をはたから見ていて見ている側が励まされることもしばしば経験することです。人間が最も人間らしい行為の一つである表現する行為に励んでいる姿に励まされるのです。その人の作品の巧拙には関係なく励まされ、見ているこちらまで活気づいたりすることもあるのです。
こんなふうに考えてきますと、芸術活動というものは価値の世界の出来事ではないように思えてきます。上手だから発表するのではなく、へたでも自己表現する人間の切実な姿がそこにあるならそれを観る人に強い励ましと、癒しをあたえるはたらきをするものだとぼくは感じます。むしろ上手だけのものは、反対にそれを観る人に自己のくだらなさのイメージをあたえ意気消沈させてしまうかもしれないと思います。表現手段を次第に磨き上げ、自己を励まし活気づけた個性は、こんどは意識的に自己のみならず他者に対して積極的に、生きる希望と活力を与えるような表現をしようと考えるようにもなり、その作品は社会的な存在にまで発展していく可能性もでてくるのだと思います。
孫引きですが、哲学者ガストン・バシュラールの、よい芸術作品について言葉の一節を引用します。
《それらは――感情に希望を与え、人間たろうとするわれわれの肉体的生命に緊張をもたらす。――それはわれわれの生命においてある役割を果たし、われわれに活力を与える。》
私達は生きることがどんなに困難な状態であっても生きつづけなければなりません。書が私達の生活を活性化するものならば私達が生きつづけることに有効な役立つものなのでしょう。もしそれが、自己にも他者にも励ましにも癒しにもならないものならば、それはどうでもよいものなのでしょう。書は自己と他者を結びつけ、両者を人間らしく活気づけるものでなければならないとぼくは思います。自己表現とは、ただ自己を表現するのではなく他の個性との深い絆を発見する行為のことではないでしょうか。
(1999年5月・会員つうしん第47号掲載)


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