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臨書(りんしょ)

  • harunokasoilibrary
  • 5月8日
  • 読了時間: 5分

更新日:5月31日

 米芾(べいふつ)は、一日、書をかかないと、頭が悪くなったように感じると述べている。いまどきそのような人がいるとしたら、その人は、天然記念物的存在か絶滅危惧種的生物であろう。実は、ぼくはそれに近い存在である。それが本当には幸せなのか不幸なのか分からないが、書をかくと、たいがいは心が澄んで穏やかになるから幸せなのであろう。それはともかく、一日かかないと何か損をしたような、無為に過ごして堕落したような、曇ったような気分になる。

 ぼくは書を学ぶときは正座して書くのが普通であり何時間でも平気なときがほとんどだが、たまに足がしびれ、正座に耐えられなくなるときがある。足がしびれるときは集中できないときである。用事があって気持ちが慌てているとか、いやでも一日何枚書かねばならないから書いているとか、近しい者に何か心配事があるとか、いろいろの理由があって足がしびれるのである。しかし、椅子に腰掛けて書けば何の問題もないことではある。

 書の線には、それを書いた人の、その時の考えや感情や心の動きが象徴されている。偉大な人物の書いた歴史的な名品には、偉大な人間の偉大な思想や感情が書き込まれているのだろうか。偉大と言っただけでそっぽを向く人もいるかもしれないが、誰にも邪魔されず、音のない静かな部屋で古い名品を書き写しながら学んでいるとなんとも落ち着いた気分になる。

褚遂良「雁塔聖教序」(部分)
褚遂良「雁塔聖教序」(部分)

 「雁塔聖教序(がんとうしょうぎょうじょ)」は褚遂良(ちょすいりょう)が書いたものだが、褚遂良が偉大な人間であったかどうかをぼくは知らない。皇帝の側近だったのだから庶民ではないが、だからといって偉大な人間とはかぎらない。いろいろその優れた人柄について伝えられてはいるが、本当のところは分からない。むしろ立身出世の上手な打算的な嫌な奴だったかもしれない。本当に分かることは「雁塔聖教序」という作品を書き残したことだけである。そこに書かれた文章は褚遂良のではない。他人の作ったものである。他人の作った文章を褚遂良が書いたのだが、褚遂良がその文章に感動したかどうかは分からない。感動しなかったとしても、皇帝の作った文章であり、皇帝の命令なのだから書かないわけにはいかなかったであろう。三蔵法師のことが書いてあるのだからそれなりに面白いのであるが、文の内容はおおげさなものであり、ぼくの心には響かない。それでも、法帖の文字をできるだけ正確に、複製を作るようなつもりで書き写していくと、その線の抑揚や書く速さの変化にリズムがあって、釣り合いのとれた一字の形を作り上げていく見事さに魂を奪われてしまう。繊細な細い点画には無限の変化があって、しかも力強い。秩序正しく、動中静、これが貴族的な美の象徴なのであろうか。モーツアルトのピアノソナタを聴きながら書いてみると、その音楽とこの書がぴったりと響きあい共鳴した。モーツアルトの悲しいまでに澄んだ響と褚遂良の楷書が似ていることにどんな意味があるのであろうか。

 「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」は顔真卿(がんしんけい)の作品である、文章も顔真卿の作文である。顔真卿についてはその生涯と人柄についても詳しく言い伝えられている。しかし、それが真実であるかどうかを、ぼくは知らない。分かるのは、やっぱり、残された作品だけである。人が人について言うことほどあてにならないものはない。

顔真卿「祭姪文稿」(部分)
顔真卿「祭姪文稿」(部分)

 これは惨殺された甥に捧げた弔辞の草稿だが、悲しみと憤りのあふれるような草稿である。選ばれた言葉に応じて書き方が違っている。意識して表現したとは思われないが、無意識とも思われない。これは顔真卿が49歳のときの作品だが、その歳までに書の表現の本質、つまり、心の動きのすべてを一本の線によって表現できるという書の表現力を自覚し、またそれを身につけてもいた結果なのだと思われる。これを写していると、言葉では表現できない、言葉以上の内容を書の線が担っているように感じられる。書が藝術であるという、その姿が初めてこの世界に現れた作品なのではないだろうか。しかし、それはなんとも言えない。顔真卿以前に、人知れず埋もれてしまった作品があるのかもしれないから。書かれた言葉の意味を考えながら丁寧に筆路をたどって行くと、心の底から全身全霊で、点画に思いをぶつけている人間の姿が浮かんでくる。その線は激しいけれど、暖かい温もりのある線質である。憤懣が爆発するような、かすれた太い線や、懐かしい面影を描くような細く流れるような連綿に人間らしい心の典型をみるようである。

 空あかねさんの悲しいシャンソンを聞きながらこれを書いてみると、悲しみの抑揚がピッタリと重なった。歌詞のひとことひとことに込められた悲しみの表現と顔真卿の悲しみの表現があまりにも似ていることに、ぼくは不思議な驚きを感じた。それは予想もしなかった取り合わせだったから。ぼくは、顔真卿に疲れたころ、あかねさんのシャンソンを聴きたくなったのである。ただ偶然に。とくに「涙」という唄の響が顔真卿の声のように感じられた。おかげかせいか知らないが、シャンソンにしびれて足が棒のようになった。

(2010年10月・会員つうしん第110号に「素描集1」として掲載)

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