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美しい言葉と表現と 春野何所依(海客)

  • harunokasoilibrary
  • 2月27日
  • 読了時間: 4分

更新日:6月1日

 「光」という文字を見ていますと、さまざまな思いが脳裏をかすめます。漢字は不思議な文字です。漢字には意味があり、それだけで言葉になっています。その言葉が挑発するといいますか、読む人の心の中にさまざまな言葉を喚起する力があるのです。漢字は、書かれなくても、そこに在るだけで言葉としての美しさがあるように私は思います。やはり、美しい言葉というものは在るように思います。

 ところが、この美しい言葉(文字)も人間の口から発せられると美しくも醜くもなってしまいます。口先だけの言葉は、どんな美しい言葉であっても醜くなります。一般に美しくないと思われている言葉も、心底から発せられると、美しい言葉に変わります。書をかくということ、表現するということは、ちょうど、言葉を発することと同じだと考えるとよいと思います。発し方が書き方ということになります。心底から発せられた書き方でないと、美しい書にはならないということです。口先だけの立派な言葉を発さないようにしなければなりません。

 

 私の作品は、私の言葉です。書という言葉で私は語っています。文学の言葉ではありません。よく絵の言葉とか音楽の言葉とかいいます。あれと同じ意味の言葉のことです。それは、文学の言葉や話し言葉と違いますが、広い意味では、同じ言葉といってよいでしょう。さて、表現された言葉が真実の言葉か、嘘かを見分けるのはたいへん難しいことです。嘘つきは巧みですから。でも私は、私を信じるしかありません。私は私の好みで判断して生きていくしかないのですから。かりにだまされても私が選んだことが、私の好みに従って選ばれたのなら私は、まちがっていなかったと思うのです。私にとって大事なのは、世間の基準ではなく私の好みだからです。私は美しい言葉を選んで書くのではありません。私はこの言葉なら、心から発することができる、私の言葉として、うたうことができると思える言葉を書くのです。名言名句など私には遠いものです。私にはこのようなものはもう書けないような気がします。あなたもあなたの歌をうたってください。

  

 ところで発せられた言葉の姿(もちろん、文字の姿のことです)の奥には、その形を出現させた芸術的衝動のようなものがあるのです。それが何なのかを感じとれればよいのですが、不思議な力で何かが形となって姿を現すのです。言葉では説明できない何者かが、真実美しい言葉の形を作り出すのです。美しい作品かどうかは、技術の巧拙だけの問題ではありません。そのような技術は、虚しい技術です。本当の技術は芸術的衝動と一体となって出てくるものだと思います。芸術的衝動の深さは、あなたの人間の大きさが決めるでしょう。書的語彙(ごい)を多くもつことはいいことですが、しかし、少ない語彙しか持っていなくても、それをとことん磨くことで、本当の言葉を表現することも可能になると思います。

 臨書をする場合も単に見えた形を写すのではなく、そのような形(姿といったほうが適切かもしれません)が、どのような芸術的衝動でできあがってきたのかを感じとらねばなりません。強い造形のエネルギーが、文字を出現させるのです。そのエネルギーの量と質を感じとらねばいけません。

 

 私が書の作品を書く場合はどうでしょう。自分ではよくわからないのですが、優しい心持ちの世界を書くような時ほど、何かえたいの知れない恐ろしいエネルギーが、集中的に私の躰(からだ)全体に漲ってくるように感じます。私が今まで生きてきた以上のわけのわからない力がどこからかやってきます。私は祈るように紙にむかいます。何者かに突き動かされるように私は、紙の中から、私の想像もしないような言葉を引っぱり出す具合です。私は、自分が今書いたばかりの世界を驚きをもってながめます。躰中が振るえるくらい感動し、涙さえでるときもあるくらいです。他の人はそんなもの見ても何とも思わないかもしれませんが、私は、そんな具合なのです。制作が終わってから、私は、いろいろ考えてみます。なぜ私はこんなものを書いたのだろうとか、私を突き動かす者は誰なのだろうかとか、これは嘘だなとかです。もしこの作品が真実美しいものならば、これはきっと、私が書いたのではなく、私が日ごろ想っている沈黙が、これを書いたのに違いありません。私は手伝っただけのような気がします。けれども責任上、私は私の印を押します。そして私は、そのような世界を見せてくれた紙や筆や墨に感謝します。こんな具合なのです。

 あなたも臨書などしているときに、その作品を書いた人が、どんな力を、誰に借りて、それを書き上げたのか考えてみてください。書の不思議な力がわかるかもしれません。

 

 それから私は、この世の中が何もかもいやなのです。特に人間にはうんざりしています。このようななさけない私が、どうして作品なんか書こうと考えるのでしょう。何もかもいやだから、美しい言葉の世界で夢をみているのかもしれません。本当のところは、私にもわかりません。しかし、私はまだ生きていたいと思ってはいるのです。少しは愛するものもありますから。

(2000年9月・会員つうしん第49号掲載)

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