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練習と稽古

  • harunokasoilibrary
  • 5月9日
  • 読了時間: 5分

更新日:5月31日

 「練習」という漢語は、中国で3世紀ころから武芸や乗馬のトレーニングに関係して使われたらしい。日本でも、平安時代中頃に書道でも使われるようになったようだ。

 「練習」の原義は、「ある行為を上達するようくり返すこと」また、「くり返してある技術を身につける行為」である。ついでに申しますと、

 「練」とは「糸を熱して柔らかにすること」の意で、そこから、「練習・錬磨(れんま)」など習練(しゅうれん)の意味となった。

 「習」とは「ひなが翼を動かしてとび方を練習すること」の意で、そこから、「ならう・くりかえして行う・まなぶ」などの意味となった。

 同じような意味で使われる漢語に「稽古」がある。これは「練習」よりはるかに古い語で、中国最古の歴史書『書経(しょきょう)』(『尚書(しょうしょ)』は書経の古名)の「堯典(ぎょうてん)」に出てくる言葉が最初であるらしい。

 そこに「古(いにしえ)の帝堯(ぎょう)を稽(かんが)える」とあり、「稽古」の原義は、「古(いにしえ)を稽(かんが)える」「昔のことを調べて、今なすべきことは何かを正しく知る」である。

 さらにそれが「古い書物などを読んで学ぶ」意になり「学問する」という意味で用いられるようになったらしい。

 日本では『古事記(こじき)』上巻の「序」に「稽古、照今」(古(いにしえ)を稽(かんが)えて、今(いま)に照らす)とあるのが最初であるらしい。鎌倉・室町時代になると、「学問する」意味から武術の修行や芸能を習うことにも使われるようになり、江戸時代には庶民にまで広く使われるようになったらしい。今では「稽古」は「くり返し学ぶ・習う・練る・学んだことを練習すること」などの意味で使われている。

 書道は人の作った文字を書くから、絵画のように自然を手本にして練習をするわけにはいかない。書道の練習では人の書いた手本を習う。創作では自然を手本にするときもあるが、創作は練習ではない。流儀書道では、その流派の型を習うが、流儀書道でなくても手本の字は一種の型のようなものだから、やはり型を習うといって良いだろう。王羲之(おうぎし)の点画と欧陽詢(おうようじゅん)の点画では型が違う。褚遂良(ちょすいりょう)も顔真卿(がんしんけい)もしかり。

 最初は、手本の筆者(先生)と同じように書ける技術を身につけるために、点画の書き方や字の形を手本どおりに書けるようになるまでくり返し練習しなければならない。技術の向上のためには手本が基準であり、手本どおりに書けるようになる事に意味がある。徹底的に手本の細部まで再現できる観察力と再現力を身につけるため、ひたすら練習に励まねばならない。勝手な解釈をして手本と似ても似つかないものを書いているようでは確かな技術が身につくことはない。

 武道の稽古では型を学ぶ。型があると目標がはっきりしていて学びやすい。武道の稽古は技術の向上と精神の鍛錬(たんれん)が一体になっていて、いかにも修行している感じがし頑張りやすい。剣道の素振りの稽古をしていると、その一振り一振りが山の頂上に到るための一歩一歩のように感じて、練習に勢いがつくだろう。目標に向かって、今まで出来なかったことが出来るようになることほど人間らしい喜びはない。いや、飛ぶ練習をするひな鳥のことを忘れていた。練習することは成長することである。成長は生きとし生きるものの喜びであるに違いない。

 筆を使いこなし、楷書の基本点画が手本どおりに書けるようになったら、字の形がバランス良くとれ、行が真っすぐに書け、紙面に思いどおりに配置できる技術を身につけなくてはならない。つづいて篆書体・隷書体・草書体・行書体・平かなのすべてにわたって練習をつづけ、古典の中のさまざまな型を稽古し、あらゆる技術を身につけていかねばならない。そして、先人のさまざまな形式の作品から学び、それらと同じように、さまざまな形式の作品を創作することにより、さらに書の技術を向上させ、自分自身の作品を創れるようにならなければいけない。ここまでの過程はつらいことも多いけれど、未知の世界に触れる楽しさも多く、学ぶことが生きることであるような、最も人間らしい張りのある充実した時期ではないかと思われる。しかし、ここまでの練習と創作は意識的に創る段階である。それらの作品は作りものに過ぎない。作為の結果である。それはそれなりに素晴しいできばえのものも在るかも知れないが、それらは脳が作り出した人工物の美である。人間の知の結晶である壮大な建築物には圧倒されるが、知識が作ったちっぽけな箱庭のようなものを、脳が自画自賛して喜んでいるような気がしてならない。

 

 世阿弥(ぜあみ)の著した『花鏡(かきょう)』に「無心(むしん)の位」という言葉がある。「空(くう)」とか「無(む)」ということと同じことらしい。長い年月の稽古の積み重ねによって至る境地で、それは無法の世界である。観世寿夫(かんぜひさお)さんの言葉を借りれば「あらゆるものを通して覚えこんだ上で、表現意識から離れて、自然に流れるごとく演じて行ける状態・・・肉体と精神の鍛錬によって、自然に光を放っている芸の美しさ、強さ・・・『我心(わがこころ)をわれにも隠す安心』という、自分自身でさえ、(演技しているという意識を)感じられない状態にならなくてはいけない・・・」という世界である。

 これは人間の意識ではどうすることも出来ないことで、創作というつくりごとを続けているうちに、思いがけずポロリと生まれてくるもののような気がする。

練習の本当の目的は、型を覚えることでも、名人芸を身につけることでもなく、一人一人が自分にしか書けない独自の作品を書けるようになることである。それは世界にたった一つしかない個性というものの価値を自ら証明することでもあるのだ。

 そして、さらに個性や自我を突き抜けた、「無心の位」という世界がある。

 そこに至った作品は自然の一部となって、太陽のように無言で、生きとし生けるものを暖かくつつみこむ光になるのかもしれない。

(2010年12月・会員つうしん第111号に「素描集2」として掲載)

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