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第9回野のはな書展(2003年4月30日~5月4日)

  • harunokasoilibrary
  • 3月22日
  • 読了時間: 5分

更新日:6月1日

ごあいさつ

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ごうまんと偽善の大地で

水にあこがれ

風にしたがい

紙の中に時を刻み

混濁の中に

形なきものの

きよらな響きを聴く

 

あなたの眼に映るのは

あなたのこころの花

 

嗤(わら)うなかれ

わたしたちの不遜な企てを

 

代表 春野かそい (目録掲載文)

  

 

第九回書展感想

春野かそい

 春野海(かい)さんが幼児の頃、私と二人でよく字を書きました。それはほんとうに楽しいひとときでした。海さんは誰も何ひとつ文字を教えないうちに、いつのまにか山という字を覚えて、筆でサッサッと書きました。海さんは、嬉々として書きました。驚いた私は、それから、長い机に、海さんと並んで座って、二人一緒に字を書くようになりました。海さんは、私のまねをして、隷書も篆書も、歓び溢れた線で嬉々として書いたものです。そのころに海さんの書いたものは、書く歓びが満ち溢れています。いつの頃からか、私は欲を出して海さんに書の基本を教え始めました。それは失敗でした。書く喜びは海さんから瞬く間に消えうせました。字は少し上手になりましたが、何か以前とは違います。教え方の拙さもあるでしょうけれど、海さんと私の、書を通じての歓びがなくなってしまいました。私はこどもから、かけがえのない喜びを奪ってしまったのかもしれません。

 技量がなければ心の中にどんな美しい思いがあっても表現することはできません。技量は日日磨かねばなりません。芸術においては技量がすべてといっても過言ではないでしょう。私たちは、墨や紙の性質に通暁し、筆の様ざまな使い方に熟練しなければなりません。感情をそのまま線や形に移しかえる技を持たねばなりません。思想をしっかり構成する方法も学ばねばなりません。これらのことは芸術に不可欠な基礎的な力です。

 しかし、おかしなことがあります。何十年も専門家としての書を習ってきた人の作品が、海さんの幼児の頃の書ほどにも私に感動をあたえないのです。上手な人の集団のように世間では言われている日展の作家の人たちの作品のなんと味けないことか、京都新聞の書き初めコンクールの優秀作品のなんと画一的でうそうそしいことでしょう。こんなものが芸術なのでしょうか。これらのこどもの作品は、書写であって芸術作品ではないと言われるかもしれませんけれど。それはともかく、幼児の頃の海さんは、全身を耳にして、紙と筆のかなでる音楽や、墨を磨るかすかな音に聴き入り、全身を目にして、私が興奮して字を書く仕草や、字を書くための様ざまな道具の色や形や、自分の身体と心の動きが筆の先を通してまるで血液のように黒ぐろと紙の中にそそがれる快感を、本能的に、エロティックに、感じとっていたのではないでしょうか。また、新大陸の発見のような驚きと喜びをもって文字を能動的に発見し、世界の不思議さの前で恍惚となっていたのではないでしょうか。電球やいろんな物に書かれている文字を見つけては、満面に笑みをうかべている小さな海さんの、天使のような姿を私は忘れることができません。そこには、芸術の原点と芸術の芸術たるゆえんがすでに現れていたと、今私は思います。知識や技量はもちろん大切なものです。しかし、それにもまして大切なことは、全身で世界に対し、能動的に発見すること、そして書く歓びに満たされることではないでしょうか。歓びのまえに技量はおのずとついてくるだろうと私は思います。 

 現代人の眼や耳は、もしかしたら太古の人よりも退化しているのかもしれません。充満する人工的な情報のなかで、ほんとうの音も、事物のほんとうの姿も私たちには感じられなくなっているのかもしれません。このような現実は、私に不安と恐怖をもたらします。その不安の中で私は、海さんの幼児の頃と私の幼少の頃を思い出し、そこには人間にとって本質的な、幸福な光に満ちた啓示が、たとえほんの一瞬にすぎなかったとしても確かにあったように感じます。その時代は人工的な情報は少ししかありませんでした。そして不安と恐怖の海の中に頼りなくくらしていたようにも思います。しかしそれはなんと豊穣な、恍惚とした、しあわせな時代であったことでしょう。

 もちろん私たちは幼児に後もどりはできません。過ぎ越し方を懐かしみ、昔はよかったと嘆くだけではセンチメンタルでしょう。過去ほどよいというだけでは反動でしょう。しかし、眼にする全てが新しい光に包まれていた遠い記憶を頼りに、私たちは自覚的に感性の汚れを洗い落として新世界をつかみとることは可能だと思います。不可能だとしても、努力しなければならないと思います。

 私は、美しい、驚きに満ちた作品がないか、期待をもって書展の会場を歩きました。それで、今年の書展はずいぶん明るく感じました。年年よくなっているようにも感じました。けれど、もっと積極的に素直に、発見の歓びを表現できるのではないかとも思いました。平凡な日常生活のなかにも、発見され聴き出されることを待っている、無数のものやことがあるのではないでしょうか。私たちが書を学ぶということは、一枚一枚思いこみや動かない観念の衣を脱ぎ捨てていくことのようにも思います。そしてわかりきったことを、もう一度幼児の眼に映る世界のように、新しい、不思議な、魅惑に満ちた、わからないことにしていくことのようにも思います。

書は、字を上手に書けるように学習するのですけれど、それだけでは苦痛でしょう。脚の短い人が長い人にあこがれてもだえるようなものです。努力して、練習して、長くなれるでしょうか。あなたは、あなたなのです。自然は世界にたった一人しかいないあなたをこの世に生み出してくれたのです。二度とあなたは生まれてはこないのです。脚の長い人からもそうでない人からも多くのものを感じとって、あなたの字を書くべきではないでしょうか。あなたの内側から出た光で事物に新鮮な光をあてなければなりません。そして私たちに見せてください。

想像力を少し働かせれば、世界はまたちがった姿で輝くかもしれません。来年は発見の歓びに満ちた書展でありますように、エネルギッシュなみなさんに再会することを心より期待せずにはいられません。

(2003年6月・会員つうしん第66号掲載)

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