第8回野のはな書展(2002年4月3~7日)
- harunokasoilibrary
- 3月15日
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更新日:6月1日
野のはなのように

出品者のひとりひとりは、自己の内にある想いを、精一杯縁どりし、現在の自分を確認し、不十分ながらも、それぞれ自分のうたをうたったのだと私は思います。
私たちの後方にも前方にも、わくわくするような未見の世界が横たわっています。その驚きに満ちた発見のためには、書道界という化け物の中だけでなく、私たちの裡にある、カビの生えた権威主義の汚れを、私たち自ら洗い流さねばならないと思います。
いつの日か、十全な書く歓びと、自由の中で、出品者のひとりひとりが、鳥のようにうたい、野のはなのように無心に咲く時がくることを、私は信じ願っています。
代表 春野かそい(目録掲載文)
第8回書展感想
私たちはかけがえの無い一度きりの経験をしたのだと思います。会場のあちこちに生けられた小さな花たちには、もう二度と会うこともできません。あの日あの時あの場所で展示された作品たちにも、もう二度と会うことはできません。私たちは、そのことを深く考えてみる必要があると思います。同じ種類の花は、他所(ほか)にいくらでも咲いているでしょう。作品は、展覧会が終わってもそれぞれの落ち着き場所に残っているでしょう。しかし、そうではないのです。あの時、あの空気の中で、見知らぬ人や見知った人の動いて止まない心の眼に触れたあの花、あの作品は、今家の中で観ている作品や他の場所で観る花とは異なったものだと私は思うのです。
展示された作品や生けられた花や、旅の渇きを癒す一杯のお茶は、様ざまな経験の持ち主である多様な人々の心に、また一つ新しい経験として働きかけたことでしょう。個人的なことではありますが、私も新しい経験をしました。それは、生けられた花や、皆さんの作品に触れたことは勿論ですが、この展覧会を機会に陶器に字を書いたことと、伴奏のように絵画の中に字を書いたことです。この経験は、私を少し豊かにしてくれましたし、大切なことの発見にもつながりました。これは野のはな書展があったればこそできたことなのだと思います。
出品者の皆さんには、制作の過程で人に言えない苦労もあったことでしょう。制作に伴う精神的、身体的苦労の経験は、生きることの訓練なのだと私は思うときがあります。制作を通して自己が生きる意味や、人間や人間を取り巻く、諸諸のものの存在の意味、そして生き方の決意を、また祈りを確認していると思われる作品に多く出会えました。これらの作品は私を強く励ましました。言うまでもなく、何を表現するかは絶対自由なのです。これは神以外の何者も束縛することはできません。(私のいう神とは自然のことといってもよいでしょう。)どんなに醜悪な作品を書くこともそれは自由です。しかし、私は、正直なもの、真摯なもの、真心のあるもの、つまり作者の心の底から噴き出してきた本当の心以外に価値をみません。十全ではなくともそのような姿勢の作品に出会えたことを嬉しく思いました。自己をごまかさず迷いながらも正直に最後まで制作を投げ出さなかった皆さんの勇気にわたしは強く励まされました。私が励まされたように、来場者の多くの人びとも何か良い心を持って帰られたことと信じています。
このような経験は、最も美しい人間的な経験の一つだと思います。しかし経験することが全てなのではありません。大切なことは、真の経験をすることだと思います。生きた経験といいますか、ただ経験をするだけなら全てのものが一秒も休むことなく風を光を水を経験しています。私のいいたい経験とは、そのような経験ではなく、最も人間的で、深い経験、その経験が明日の生につながる経験のことです。今年は全臨の大作を仕上げたから来年はもういいだろう、なんてことにならない経験です。日一日、一年一年毎に積み上げられてゆく生きた経験のことです。経験することでこれまでの自己が否定され、より人間的に深く広く変わってゆく経験のことです。皆さんの今回の経験が、毎日の生活に少しでもつながってゆくことを私は願います。制作の中で、また作品を観る中で、真の経験をされた人の記憶の裡(うち)に作品は生き続け働き続けるでしょう。そうしてはじめて、一度きりの経験が永遠の生命につながるのだと私は思います。
《来年への願い》
年齢も境遇も生き方も異なる多様な一人ひとりが、この宇宙の在り様(よう)と同じように、それぞれがかけがえのない存在なのだと、互いに認め合って、共生しているような展覧会になりますように。そしてそのような思いが出品者の全てをつなぐ思いであったら、どんなに未来(あした)に希望がもてることでしょう。
(2002年5月・会員つうしん第60号掲載)

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