第7回野のはな書展(2001年3月30日~4月1日)
- harunokasoilibrary
- 3月13日
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更新日:6月1日
ごあいさつ
野山に咲く四季折節の花も、

よく手入れされた庭の花も、
都会の一隅に人知れず咲く名も知れぬ草花も、
花は、見られるために咲いてはいない。
見せるために咲いているのでもない。
花は無心に咲いている。
早く咲くものも、遅く咲くものも、
それぞれの空を見つめて、ただそこに咲いている。
それは誰のためにも咲いてはいない。
自然に咲いているのだ。
花の前に誰かがそっと立ち止まる時、
花はその心を開く。
その花の前で人はそれぞれの夢を想(み)る。
(故観世寿夫氏に感謝を込めて)
私の書が、いかに未熟で観賞に値しないものであったとしても、私には書を消閑の具や遊芸と弄ぶ輩と肩を並べて歩む気持ちはない。だからといってまた、肩を怒らして、書は芸術だと身構える気もない。私にとって書は、未知なる世界であり、作品は命の証しである。出品者が、私と同感であるか、ないのか、私は知らない。願わくば、野のはなのようでありますように。
代表 春野かそい
(目録の掲載文)
書展寸感 春野かそい
私は今回の出品者の多くに、いや全てに好感を持っているしその真摯な努力の姿に感動もしている。そして書展が出品者はもちろん観覧者にとって有意義なものであってほしいと、誰よりも願いかつそのような結果になるように可能な限りかけずりまわりもしたのだった。
まさに善良で愛すべき人達と共にする事業は、それがいかにささやかな催しであっても、こんな喜びがそこいらにゴロゴロ転がっているものでもない。ここに集(つど)った全員に共通の認識の意識はなかったとしても、何か不思議な縁で「野のはな」というところに集った私達である。2001年の京都の清水は、私達にとっても宇宙のいかなるものにとってもたった一度きりの出来事であり生の証しである。宇宙の生命の大きな流れと、私という小さな流れに、ある貴重なものを私達は付加したのだと、今私は想っている。また、上手、下手とか自己顕示とかいった卑俗な次元の出来事であってはならないとも思っている。
さて、わたしは再び以前語ったことを訂正しなければならない。なさけないことかもしれないがしかたがない。「書は芸術である」という言い方は、あまりにも軽率な言い方であった。思慮深くない言いぐさであった。これはおもいあがった人の言である。「書は芸術ではない」といった方がより正しい気がする。もし書が芸術なら、どんなつまらない作品であってもそれが書であるなら全て芸術作品ということになる。書が芸術なのではなく、書として私達がかいた作品のあるものが、「これは芸術だ!」と人に感じさせるものがあるということではないだろうか。つまり書は芸術であるとかないとかではなく、芸術だと感じさせる作品が書の作品の中にはあるということだ。これと同様に絵画も音楽もそれ自体が芸術なのではない。それぞれの創作の中に芸術を感じさせる作品があるということではないだろうか。書や、絵や音楽が偉大なる芸術なのではなく、書や絵や音楽にもし本当に価値があるとしたら、それらが、人びとの役に立ち、人間として生きていくうえでなくてはならないものである場合だけではないだろうか。そういったものだけをわたしは、芸術と呼びたい。価値あるものと呼びたい。なぜ人は芸術を感じるのだろうか。そもそも芸術とは何なのか?今ここで芸術論を述べるゆとりはない。しかしいつの日か深く考察してみたいと考えてはいる。
ところで、出品作品にわたしが感動したかというと、正直なところ否(ノー)というしかない。もっともっと心を込めて一度きりの生を永遠の生にしなければならないと思う。私達の日常は嘘だらけである。朝から晩まで嘘のつきつづけである。トルストイの表現を借りれば「…在宅しているのに不在だと称し、ちっともうれしくないのに大いにうれしいと言ったり、尊敬もしていないのに敬愛するだれだれなどと書いたり、金があるくせにないと言ったり、等々。われわれは他人に対する嘘、…を悪事とみなしている、が、自分自身に対する嘘は恐れていない。」そして、それを人間らしいとか人間だものとかいって誤魔化してさえいる。これからさき嘘の上に築かれた世界は、どのようになっていくのだろうか。作品だけでも嘘をつかないことだ。
私達は無心に生きることはできないが、生きて私達を励ましつづけている他の生物のように、少なくとも、正直に一生懸命に生きている姿が反映しているような作品を書かないといけないと思う。書展をバネにして自他の両方と戦わねばいけないと思うのだ。まずそのための第一歩は誠実な学習を今始めることではないか。
これはわたし自身が一番反省しなければいけないことだと思っている。
(2001年5月・会員つうしん第53号掲載)

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