第6回野のはな書展(1999年10月10~11日)
- harunokasoilibrary
- 3月11日
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更新日:6月1日
―何のための書か―(あいさつにかえて)

私たちは書のために書を書いているのではない。生きているから書いているのだ。書くために生きているのではない、生きつづけるために書いているのだ。なによりも世界をいつくしむから書いているのだ。私たちは自分の創った作品が一人でもいいからその人が人間として生きつづけることに役立つことを願いつつ、書くことによって自分もまた生きつづけるために書いているのだ。
あなたにとってその作品が生きるうえで何の役にもたたないのなら、その作品は、あなたにとって何ものでもない、ただの物にすぎない。ここにある作品のどれかが、あなたに生きる勇気をあたえるだろうか、私たちにはわからない。それはあなたと作品のあいだでおこる出来事だから。
ここにある作品はどれも未完成である。それを観て感動する人によって初めて作品は完成されるのだ。あなたが仕上げをするのだ。作品が、毎日生きるために食べている食べ物ほどに役に立てれば、私たちが書きつづける意味がある。書展をする意味がある。
小さな野の花、澄みきった青空、ほほをくすぐるそよ風、ほほえみ、さまざまな不幸な人、生きることしかしらないおさな児の瞳、死者の山、その他いろいろ大きなものも小さなものもみんな私たちをひととき人間らしく生かしてくれるものだ。作品もその仲間になれたなら、どんなにすばらしいことだろう、とわたしは思う。
春 野 海 客
(目録に掲載)
第6回野のはな書展の感想にかえて 春 野 海 客
私は数年来、書の水準レベルを上げることがこの現実世界をよりよく変えることにつながるのだと考えてきました。たしかにそれはそれでよいのですけれど、水準を上げるといいましても、どうしたら水準が上がるのか、書について知識を増やしたり技術を高めればそれでよいのか、それでは何も変わらないのではないのか、書は何のためにあるのかを考えたとき、今までの考え方はよく解らない、あいまいな考え方だったと反省しました。書の水準を上げることよりも一人の人を大切にする方がもっと本質的なことだと思うようになりました。
人生は華やかで楽しく豊かで幸福なだけでなく、淋しく悲しく貧しく孤独で不幸なものでもあります。だから人は自ら音楽し絵を描きまた作品に勇気づけられもするのです。書も人を勇気づけることができないならば何ものでもありません。
いいや、書には人生の外に客観的な価値があるのだという人もいるかもしれません。しかし一人ひとりにとって、そんなことはどうでもいいことだと私は思います。人にとって日びを生きつづけることが全てではないですか。人は書のために生きているのではありません。生きているから制作し書くのです。生きつづけるために書くのです。書のためではなく日びの人びとの生活のために、人びとが生きつづけるために書はあるのです。書をする人は少しでも人びとが生きていく役に立つことのために書かねばならないと思うのです。もちろん何のために書くかは自由です。言うまでもありません。しかし人びとの生きるために役に立つ書はすばらしいではありませんか。
いいや、私は私のために、私の楽しみのために書いているのだ、人がどう見ようが私にとってそんなことはどうでもいいことだ。という人もいるかも知れません。それはそのとおりですし、それでよろしいが、そういう人の書いた作品が人びとにもてはやされることがあるかもしれませんけれども、その人は何のために人びとに作品を見せるのでしょうか。何かへんな気がします。
また好奇心の強い学者が、自分のためだけに書いたという人に興味を持ってその作品と人の研究をして、小難しい理屈をならべて、真の芸術作品・芸術家だとか新しい価値を生み出したなどと言うかもしれません。しかし芸術は理屈ではありません。感じるか感じないかが問題なのです。作者が何かに感動することそして作品を書くこと、書かれた作品が観る人に感動をあたえること、これが全てではないでしょうか。芸術作品が美しいのは、音や色や形そのものが美しいからではなく、一人の人を生かしたいと願う気持ち、世界に感動しその感動を通して一人の人を勇気づけ生きつづけさせたいと願う、いつくしみの心が美しいのです。その心が色や形や音になって表出したものが芸術だと私は思うのです。芸術家も作品も偉ぶってはいけないし、事実そんな偉いものでもありません。果物や野菜のようなものと同じで人びとが生きるためにひつような食べ物とかわらないものだと思います。人びとの滋養になることが目的であって、人びとの上に野菜があぐらをかいた世界なんて想像しただけでこっけいです。
また作品は客観的に存在しているのだから、その作者が何を思って書いたかなんかに関わりなく、人びとは好きかってに観るのだから、その作者の人間性と作品とは直接関係はないという人もいるかもしれません。作者の人格と作品とがまったく同じものだと、私も思いません。けれど、いくら芸術は虚構フィクションの世界だから作り事でよいのだといわれても私はなんだかちょっとおかしいのではないかと思うのです。虚構はあたりまえでも虚構と嘘とは違います。芸術においては、平和を心から願っていない人が、平和を書くなどということは嘘であり嘘は芸術作品にはなり得ないのです。もちろん日常生活でもそれは嘘です。真心がなければ作品の条件としては成立しないのが芸術作品だということは、この嘘だらけの世界にあって私には唯一の救いのようなものです。少し大げさですが。
私達は立派な仕事をしなければならないと思います。農民が安全で滋養になる作物を作るように、職人がお金のためだけではなくそれを使う人のために丹精込めて物を作るように、母や父がこどもを慈しみ育てるように、また家族のために愛情こめて家事をするように、教師が一人ひとりの教え子を育むように、学者が人びとのために真理発見の旅に出るように、商人が、人びとの役に立つよい商品を集めてくるように、工場や事務所で働く人々が、普通に生活する人びとのために役に立つ普通の仕事をするように、普通の人びとのためにこれらの普通の立派な人々と同じように、私達も立派な仕事をしなければならないと思うのです。
書が人の上に立って偉ぶってはおかしいです。馬鹿馬鹿しいです。私達を生きつづけさせてくれるパン一かけらほどの力もない水準の高い書なんてものは、私達にとって何ものでもありません。あなたの書が水準の低い書だといってわらわれたとしても、たった一人の人にとってそれが生きる糧になっているとしたらそれ以上のものがどこにあるというのでしょう。私達は書のためにではなく、書を偉大な道具にして人を生かすために書をいつくしみ、立派な豊かな作品を作っていかなければならないと思うのです。
くどくどと、個人的な考えを述べ、貴重な紙面を汚してしまいました。私にあたえられた仕事は出品された作品や今回の書展についての感想を述べることでした。しかしもう紙面がありませんので最後にもう少しだけ述べさせていただいてこの文章を終わりたいと思います。願わくばくどくどと私が述べましたことにつきまして、出品者のおひとりおひとりがご自分の作品や今後の姿勢について考え、反省していただければ幸いです。来場者のアンケートを読みましてもわかりますが、今回の書展の書的レベルうんぬんということよりも一人の人をひとときでも人間らしく生きつづけさせ得たことは事実ですし、この書展という作品が地球の片隅を少し人間らしく創り変えたことを私は確信致しました。出品者の皆さまが思っている以上に意義のあった書展だったと感じております。
それから、私は会の代表という立場ですので、こんな偉そうな文章を書いているのですけれど、知ったようなことを述べてきましたことを皆さまにお詫び申し上げます。
最後になりましたが、出品者と、ご協力いただいた会員の皆さまに会の代表として、書展を支えて下さったことに心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。
(1999年11月・会員つうしん第43号掲載)

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