top of page

第4回野のはな書展(1997年10月12~13日)

  • harunokasoilibrary
  • 3月9日
  • 読了時間: 9分

更新日:6月1日

―読者の方へ―(目録掲載文)

 日本人にとって現在ほど「書を学ぶこと」、「文字を書くこと」を自覚的にしなければならない時代はありません。

 パソコン、ワープロなど書き文字の代用品にすぎないものが、新人類を象徴するような顔をしてのさばり、めずらしい物にすぐとびつくこども達や、軽薄なおとな達をとりこにし、文字を忘れさせ、その知力を低くし、考える力や表現力を奪いつつあります。文字は書くことによって覚え、考える力も書くことによってしか深められません。このままでは日本の文化は今以上にだめになっていくことでしょう。

ree

 私達は「書とは何か」「本当に美しい良い書とはどういう書のことなのか」を常に問いかけつつ学んでいかねばならないと考えています。

 「書」をかくとは、言葉をかくことです。ただ単に言葉をかけば、「書」になるということではなく、書の歴史にのっとった書の言葉をかくということです。言葉は「世界」といい変えることができます。美しい言葉は人間を作り、また人間は言葉を作り出し、より美しく世界を作り変えていくことができます。「書」は、日本人にとって文化の根本にあるものです。そしてそれは、全世界に開かれた窓のようなものです。

 あなたの心に触れた作品があればその良いところ、また悪いところをじっくり見つめて、あなたの目と、あなたの頭でなぜ良いのか、またなぜ悪いのか考えてみて下さい。

 「書」を見ることが、自分の生活の糧になるような見方をしなければ、展覧会にきた意味がありません。何か一つでも発見して帰っていかれることを願っております。

                                  春野海客

 

《総評》

 秋の清らかでかすかにふるえるような銀灰色の光につつまれた木木の葉が、死の訪れを前にして燃えたつような生命(いのち)の色に染まる美しさに、心を奪われない人はいないだろう。しかし自然の美しさを理解する日本人でも木木の葉と同じように日常的に目の前にある文字や書の美しさを理解できる人は少ないようだ。これは不思議なことである。

 ところで自然界には、どんなに人間にとって醜く見えるものであってもひとつとして無駄なものはないと私は信じている。人間も自然によって作られたものだとすれば、ひとりとして無駄な人なんているわけがないのである。しかし、人間の作ったものには、無駄なものとか醜悪なものが残念ながら限りなくあるようだ。自然の物と人工の物とはやはりまったく質的に違うもののようである。書は人工の典型である。だから書には醜悪なものと美しく良いものとの両方が確かにあるのである。今回の出品作の全てを自然物のようにひとつとして無駄な作品はないと私は思いたいのだが、こういうわけでそう思えないのが苦しいところである。

 

 言うまでもなく書の価値は、その作品自体の中にはっきりと存在しているものである。その価値は、人の好みなどで勝手に決められるようなものではない。ましてその作者がどんなにいい人であろうがなかろうが、完成までにどれくらい時間が費やされたとか、何百枚書いたとか、たった一枚で書き上げたとか、血のにじむような努力をしたとか、また若いとか高齢であるとか、お金がかかったとか、好きだ嫌いだとかには一切かかわりなく、その作者からも独立したものとして作品は存在しているのである。  

 

 作者は書展会場で公開する前に、自分が書き上げたばっかりの作品をまず最初に鑑賞者として書の基準に照らして評価しなければいけないしまた自然にそうしているものである。その評価が厳しければ厳しいほど、また正しければ正しいほどその作者はより高い水準に一歩一歩のぼっていけるのである。私は多くの出品者の刻苦勉励している姿を知ってはいるが、今のべたように作品というものは出来上がってしまえばもう一個の独立した存在物になってしまうのであるから一切そのような人間臭や情を突き離して評価しなければならない。そうでなければ本当に書を愛しているとはいえないことになると思うし、書に申し訳なく思うのである。作者は吾が子がいじめられけなされ辱められているように感じるかもしれないが、書という公のルールに照らして問題行動があるものなら吾が子と共に苦しんで更生の道を歩むのもいたしかたないのではないだろうか。

 

 私はひとりひとりが書に対する理解を深め真に価値ある本当の書を作っていけるようになること、また創作や書展がそこに集う全ての人人(びと)にとって真に意義のあることになるよう願っているだけである。くれぐれも誤解のないように願いたい。  

 

 さて、今回展の印象を一言でいえといわれたら「バラエティに富んだフルコースを楽しんだ感じ」といえば聞こえはいいが、「ごった煮料理を食べているような感じ」といったほうがあたっているようだ。来場者の大半が「野のはなが風にそよいでゆれている感じ」だとか「ほっとして心あたたまる」とか「個性的な作品にたんのうした」とか「心がこもっている」とかほめすぎ言葉、感動の言葉を残していったようだが、私の心は冬の寒空の鉛色の雲のようにすっきりしない。

 同日、近くの美術館で開催されていた三つの展覧会のことを思うとますます心は鉛を背負ったように重くなる。一つは「ルーブル展」、市美術館の裏側まで入館者の行列であった。人が多すぎてとても作品との対話などできっこないものをなんのためにか行列をつくってまで展覧会に殺到するこの群衆の姿を見ていると、芸術に対する渇望と共に哀れさとある種の虚しさを感じずにはいられない。もう一つは「…女流書家展」、その凍り付いたような熱気のない会場のたたずまいはどうしたことだろうか。出品者はプロの書家と思っているがプロではない書家の書展、なんとも不可解な書展である。絵のようにというよりも染色工芸のように美しい無内容な作品が整然とつめたくひしめきあっていた。正当にも多くの人人(びと)はこのような作品には感動しないようである。もう一つは40年以上も続いている、どこにでもあるような「書道展」、こちらはなかなか盛況であった。ひっきりなしに来場者が出入りしている。いかにも素人中心の展覧会らしくなんとなく趣味的で軽いといえば失礼かもしれないが、おけい古事発表会といった感じであった。作品もぎっしりと肩をよせあって広い会場につめこまれていた。来場者は作品を鑑賞するというよりも出品者との付き合いのために様々なほめ言葉を用意して面倒な展覧会に足を運んでいるかに見えた。この三つの展覧会はほぼ現在の展覧会の典型的な姿といってよいだろう。芸術鑑賞の名のもとに鑑賞などどこにも存在しないにもかかわらず他人だけでなく出品者にも迷惑をかけているのが現在の展覧会なのだと感じるのはあながちうがちすぎた見方とはいえないのではないか。

 

さてそこで「野のはな書展」はこの状況から外にあるのかと問われれば「否」と答えねばならない。その理由の第一に、出品者の多くが創作とその発表意義について正しく強く広く高い意識をもって書展に臨んだとはとても思えないからだ。

 

第二に鑑賞力(見る力)の低さからくる表面的、印象的、趣味的な書道観によって、好きか嫌いかといったような好みの問題に書の価値をわい小化してしまっている。書の良し悪しの基準がわからないからこのような通俗的な嘘がまかりとおっているのである。見る力を日常的に高めねばならない。見る力を高めるには、書字の原理・原則に通じることと、良いといわれている書をなぜ良いのかを考えながら多く見ること。また書の歴史にのっとってそれを見ることが大切である。先人の意見をうのみにするのではなく、その見方、考え方を参考にしながら自分の目で見、頭で考えることを忘れてはいけない。

 

第三に書く力(書の実力)の未熟さがあげられる。本当の書は技術の熟練の上にしか成り立たないことは言うまでもない。正確にいえば単なるテクニックではなく歴史的な技術に通暁(つうぎょう)するということである。とにもかくにも書く力は猛練習する他ない。まぐれあたりの作品などというものは存在しないのである。鍛錬した分だけしか表現力は高まらないと思うのが正しい。

 

第四に言葉に対する切実な思いの不足、これはたいへんだ。言うまでもなく書の価値の第一は書の内容(中身)が深いことである。中身とは、書かれている言葉に対する深い理解と書として表現された言葉の世界の広さ深さ、水準の高さ、真実・真心ということである。これは書の中身、書の美の源泉そのものである。言葉に対する思いの希薄さは決定的に無内容な書しか生み出さないことは言うまでもないであろう。書をする人とは、書くべき言葉を常に持っている人のことである。書く言葉がなければ何も書かなくてもよいしまた書けるものではない。言葉を鍛えなければならない。「上手」「下手」は書の中身ではないから一義的なことではなく、「上手」「下手」を気にしすぎる人は永遠に書と対話することはできないのである。

 

書展の意義については書展目録のはじめに少し触れておいたからそれを読んで考えてもらうとして、また個々の作品批評については学習会で簡単ではあるがふれたのでここでは省略するとして問題提起のみで舌たらずではあるが、筆を置こうと思う。

 

蛇足かもしれないが、次回展にむけて私達は、書く力見る力、を鍛えながら切実な書くべき言葉をもつこととその言葉の内実を日常的に深め豊かにすること。今自分が思っていること考えていることをどうしたら書として表現できるのか、日常的に工夫すること。またその表現は、書の歴史上のどのあたりに位置し、書としての水準はどうなのかなど、歴史の積み重なりの中での表現を考えねばならないと思う。そのためには書字の原理・原則を深く理解することを忘れてはいけない。書はその展開の中にしか存在することはできないからである。私達は単なる実用とか、教育とか、趣味とか、手仕事とか、ボケ防止などといった書を身近なものにすると同時にわい小化する、一見正しいように思える俗説や嘘に惑わされないようにしたいものである。実用でも趣味でもよいが書はそれにとどまるものではなく無限の可能性を秘めた偉大な芸術なのである。もういいかげんに書を辱めるのはやめたほうがよい。

 

それにしても今回は実に楽しい書展でもあった。心をこめて生けられた野の花、また少しでもゆったりと作品と対話できるように間をあけた展示の工夫など出品者の心づかいは、押せばはねかえってくる筆のように来場者の心に響き伝わり、こちらにこだまして返ってきた。心をこめて真心からやれば何事もたしかに伝えることができるものだとほのかな希望がもてたことは、私だけでなく、出品者全てにとって、小さくても意義深い書展であったのではないかと思う。

                                          春野海客

(1997年11月・会員つうしん第30号掲載)

ree

最新記事

すべて表示
もろもろ塾のページを新設しました

もろもろ塾の資料を掲載する新しいページを作成しました。 こちら からご覧ください。 今後、少しずつ掲載していきます。 現在、『無私「私論」』を掲載しています。 無私「私論」1 無私「私論」2 無私「私論」3 無私「私論」4 無私「私論」5 無私「私論」6

 
 
 
私にとって大切なことは

私にとって大切なことは、 人に誉められることではありません。人に感動をあたえるような立派な作品を発表することでもありません。 有名になることでも、お金持ちになることでもありません。 これはあくまでも私にとってのことです。 私ひとりのことです。 あなたのことではありません。...

 
 
 

コメント


© 2025 Harunokasoi

無断の複製転載を禁じます

bottom of page