第27回野のはな書展(2021年9月21~26日)
- harunokasoilibrary
- 7月13日
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ごあいさつに代えて
私は?私たちは?

ほぼ30年にわたって
書が芸術として存続できるのか!
真実は言葉で表現可能か!
誠とは何か・・・解らない難しい事ばかりですが
私たちなりに不十分ながら追求し、創作して参りました
私の考えに過ぎませんが僭越をお許しください
書は造形芸術です しかしそれだけではありません
音(音楽?)と言葉が付属します
特に言葉は虚偽もしくは嘘がほとんどですから文字通り真に受けてはいけません
私が今回書いた言葉もネガティブなものばかりですが字義どおりの意味を描いた訳ではありません
私の言葉と申しましたが正確に言いますと、そんなものはありません
ほとんどが先人たちから学んだ言葉です 音楽や造形言語も含みます
数限りないですが 一例をあげますと 蕪村 池大雅 芭蕉 空海 モロー ルオー
クレー ルドン ゴッホ エッシャー モンドリアン ガウディ 北斎・・・
書は芸術として最高の可能性を秘めている と私は信じています!
(出品目録掲載文)

第27回野のはな書展感想

かつて、何度もあった人類が絶滅するかも知れないほどの疫病のため、書展は実現しないのではないかと、危惧しましたが、植田先生はじめ会員さんとそのご家族と出品者の友人知人と多くの支援者の愛のおかげで書展が実現できたことを嬉しく思いました。「愛」を何年も書いてきた私ですが、書展を実現する為に行動してきた皆さんが愛のシンボルだと私は感じました。
私は病気になって手足や頭がやや不自由になり、適切な決断や判断ができないことが多か

ったのですが、看板が大雨で濡れて紙がぼろぼろに溶けてしまいがっかりしましたが、私はその時、植田先生の雨が降るかもしれないから看板にナイロンをかけておこうかという助言を無視して、美術館内の小窓から強い雨が外の屋根に弾けている様子が気持ちよく看板のことは忘れてボーと眺めていたのです。そして、晴れてコバルトブルーの澄んだ空がみえないかなと、のんきに考えていたのです。今年の私の作品は、明るいコバルトブルーとは反対の暗いウルトラマリンかプルシャンブル―の淋しい色調だったのですが、溶けた看板は明るく強いものでした。
この際、水に塗れても破れない紙に替えてもっと淋しい綺麗な風(ふう)に書き直すことにしました。何枚も書いたのですが、すべて気に入らなくて、心身ともに限界を感じもうだめかと諦めかけましたが、力を抜いて書いた最後の一枚がイメージに近いものになったと私は感じ、ホッとしました。
私は何年も線の表現に取り組んで来ましたが、そ
れは自然から独立した造形的な線でした、いわば抽象画の白黒の世界の線です。書の線と同

じでとても美しく清らかで力強く感じてきました。ところが何年か前から色を墨の線と併用するようになってきました。私にはその気持ちを説明するのが難しいので、私が最も敬愛する陶芸家の加茂田章二(1933~1983)が1971年の個展で会場に貼りだした挨拶文の一部が私の気分に近いのでそれを載せておきます。

「私は矛盾を感じ 抵抗を感じ 内に暗さや重さを秘めながら 軽く明るい飛翔したい欲望がある そんな気持ちが 私に 色を使わせた」(加茂田章二 ギャラリー「手」で1971年)
今回の書展に向けて2月に書道講座を行い、特に臨書に取り組むにあたって大切なことをお話しました。それに応えて何人かの方が古典の、特にかなの臨書に挑戦され、書展の質が少しですが向上したように思います。出品作品のうちいくつかを取り上げて鑑賞してみました。

黒田いづみ書 軸 藤原定家「金槐和歌集」節臨
かなの美の本質の一つは、連綿遊糸(れんめんゆうし)ですが、定家のかなは放書きが主で平安かなの伝統に逆らっています。字形も横広で連綿による縦の流れに逆らっています。連綿がないので逆らうというより調和しているといったほうがいいかもしれません。一字一字は懐が広くゆったりと構えていますねえ。墨継ぎの代りに極端に太い線が所々にあり大小、細太の変化が巧で立体効果をだしています。行が遊糸の代りに左右に揺れながらバランスを取っています。伝統に逆らいつつかな美の本質をちゃんと踏まえた用意の書です。卒意の書ではありませんね。黒田さんはかな美の本質をよく捉えておられますね。無意識かも知れませんが?
安達昌子臨書 紀貫之筆「寸松庵色紙」

寸松庵色紙は上代様(じょうだいよう)古筆(こひつ)かなの典型。平安貴族の美意識を表しています。
それは優雅な料紙の色や模様や形、優美なかなの線に表れています。散らし書き、連綿遊糸、墨継ぎの位置など変化の美の典型。西洋の古典音楽の様に書き始めの「む」を受けて、次ぎの字や行がどの様に変化しコーダにあたる最後の行や字をどのようにまとめているかを観察しましょう。豊かな感性はもちろん大事ですがよく考え抜かれた用意の書ですね。感性だけではこの様な書は書けません。深く広い書の知識と手の修練がなければなりません。

小中弥生臨書「秋萩帖」
平安時代の草仮名の典型。万葉仮名から平かな完成への過渡的な仮名。
唐紙を刷毛で染めた染め紙をつないで書かれている。小中さんの書かれた切れは黄色く変色しているが、元は、平安貴族の愛した高貴な白だったに違いない。筆者ははっきり分からないが、小野道風と推定されている。
この帖は一見したところ上代様古筆かなの典型の寸松庵や高野切とは似ていませんが、優美な線質や行や一字や紙面全体の構成に見られる平安仮名美の本質は同じです。小中さんの臨書はその目には見えない本質をよく捉えられています。(これは放書ですが揺れる様な連綿遊糸、字形の大小の変化による奥行の表現、懐の広さなど)

植田淳子(春汀)王羲之「蘭亭叙」全臨
春汀さんの臨書は大変優れたものである。原本との細かい違いをあげればきりがないが、それが本質的でない場合はその違いは

どうでもよいことである。全体の紙面構成は完ぺきに近い。上下左右、行間の等間隔さと各行の統一と変化は妙である。見ていてほれぼれする。一字一字の姿もとても美しく王羲之にも書けないだろう。写し上手と馬鹿にしてはいけない。そこから書は始まるのだ。よく観察する
だけでなくそっくりに再現するためには大変な勤勉さと技量の修練がなければ出来るものではない。その上に豊かな感性と才能がなければならない。立派な書である。田端さんの表具も立派だ!
(2021年10月・会員つうしん第176号掲載)

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