第22回野のはな書展(2016年5月24~29日)
- harunokasoilibrary
- 6月6日
- 読了時間: 7分
ごあいさつに代えて

良い言葉が書いてあるから 良いのではない
「良い言葉ですねえ」というご挨拶は もうやめよう
書は かかれている言葉から離れるほど良い
はじめに書があった
言葉がはじめにあったのではない
書から言葉が生まれたのだ
書はイメージである
思想や文学を書くために書があるのではない
書から思想や文学が生れるのだ
いずれにせよ
書を完成させるのは 作者ではない
鑑賞者である あなただ
代表 春野かそい (出品目録掲載文)
第22回野のはな書展感想

はじめに、私は、出品者と、作品を運び展示し、かたづけてくれたスタッフや協力者の皆さんに、感謝の言葉を贈らねばならない。かろうじて生きのびている書展に命を吹き込んでくれたのだから。
私は、書展のたびに、展覧会の意義について考え、脱落者や無理解に悩み、その継続について迷ってきたが、しかし、主体性のないことだが、少数の、私を信頼してくれる出品者の情熱に押されて、結果的に正しい道を歩んできたように、今、感じ、ありがたいことだと心から思っている。
無償で、人々を励まそうと、それだけが動機ではないとしても、出品してくれた出品者に対して、来場者は感謝するべきであろう。私は、来場者に、何ひとつ感謝する気はない。会場の受付で、出品者が来場者に「ありがとうございました」と礼を言っているのは、逆立ちした、おかしな光景ではないか。我々は商売もしているが、商売のために展覧しているわけではない。
さて、今回、展覧会や書や芸術について、はじめて気づいた事を少し述べようと思う。
我々は、習慣や慣習でものごとを考え、感じ、行動しているようだが、その事を自覚して、出来るだけ、反慣習的に生きたほうが良いと思う。日常的に、それが難しければ、展覧会だけでも、純粋な自己に帰る訓練の場にすることをおすすめする。
私は、会場を歩きながら、展示された一つ一つの作品が異様な輝きを放って、語りかけてくるのを感じた。
展覧会に行くとはどういう事だろう。
それは、他者に会いに行くことではないか。
我々は、普段、他者と関わって、人の中で暮らしているのだが、ほんとうは、自分だけしか見つめていないのではないか。他者とほんとうに対話している人がいるだろうか。人のため、人のため、と言いながら、自分のために他者を利用しているに過ぎないのではないか。辺野古や福島に行き、人のために運動をしている人たちも、ほんとうに沖縄の人や被災者の顔を見ているのだろうか。自分の顔だけしか見ていないのではないか。
作品を包んでいる額や掛け軸は、他者へと開かれた窓である。
その窓の向こうには、こちらを見つめる他者の顔がある。
作品を鑑賞するとは、その他者と対話することである。だから、額装や表具は、他者との対話を助けるものでなくてはならないと思う。
書かれている言葉の向こうに作者の顔がある。
言葉は文字である。
顔は、文字の書きぶりの表(おもて)に現れている。
私の前には作品があった。それらは掛けがえのない他者であった。誰とも置きかえることの出来ない、生の重畳(ちょうじょう)した他者であった。それらは私とは別の、私の知らない他者であった。そこで「こんにちは」「はじめまして」と他者と出会うのである。
それぞれの作品は独特の光りを放っていた。あるものは鈍く、または明るく、そして軽やかに、あるいは寡黙に、何者も冒すことの出来ない存在としてそこにあった。他者に会うとは、他者との対話の中で、ほんとうの自分に気づくことである。私は、魅力的で人間的な、はじめて見る他者の中を歩きながら、書展とは、最も人間らしい営為でなければならない、と深く心に刻みこんだ。
制作は真摯でなければならない。誠実でなければならない。正直でなければならない。
創作は臨書であり、臨書は創作である。創作と臨書と分けること自体がおかしい事ではないか。そこには作品があるだけなのであって創作や臨書があるのではない。臨書は書の学習のためにするものだとか、書の歴史を組織するためだとか、もっともらしい陳腐な考えは捨てよう。
我々の前には、今という時間があるだけだ。今、目の前に、王羲之や顔真卿や良寛の書の影があるが、それらは王羲之でも良寛でもない。今、見ている書の影があるだけである。それらは過去の影ではない。未来の影でもない。今の自分が作った自分の影である。臨書はどこまでいっても、自分の影でしかない。だから臨書は創作であるとも言えるのではないか。
書展に出品する者は、制作が誠実であるとはどういう事なのか、書きながら考えなければならない。
私は、書展の「ごあいさつに代えて」で「はじめに書があった」と述べた。これについて少し説明してみよう。
我々は、何もない所に生まれるのではない。無数のイメージの中に生まれてくるのである。漢字や音といった記号の中に生まれてくると言ってもよい。話し言葉の中に生まれてくるともいえるが、おそらく母の顔というイメージがはじめに在るのだろう。あるいは母の胎内の肉体のイメージがはじめかもしれない。イメージがはじめにあったのである。
また、我々は自分で考えているつもりでも、ほんとうは、我々が生れる前からあった漢字や記号や音というイメージに考えさせられているのである。そして、その漢字や記号によって考える時に、新しい言葉が生まれるのである。書は、好きな言葉をかくわけだが、言葉の前に文字というイメージがなければ成立しない芸術である。そして、書かれた言葉の意味以上の言葉が生まれてくるイメージほど、深い芸術性がある作品だと言えるのではないだろうか。それが、「書はかかれている言葉から離れるほど良い」という意味である。
芸術は、鑑賞者が完成させるものだが、私は、リンゴの木のようになりたいとも、交流会で語った。出来るなら、自分の作った作品がリンゴの果実みのように人びとのために役立つものであってほしいと願うのである。さらに、書展がリンゴ園のようになればどんなに楽しいことだろうとも想う。そして、それは出品者が自覚して願い、展覧会の意義を感じれば、必ず実現する願いなのである。続けて来てほんとうに良かったと思う。
情熱的に私を押し上げてくれた出品者に心から「ありがとう」の言葉を贈りたい。
(2015年6月・会員つうしん第144号掲載)

(以下は後日感想文集の中で付け加えられた感想)
私は、書展のたびに、展覧会の意義について考え、脱落者や無理解に悩み、その継続について迷ってきましたが、しかし、野のはなを応援して下さる多くの方がたの情熱に押されて、結果的に「継続する」という正しい道を歩んできたように、今、感じています。
しかし、一言いっておきますが、この書展は、会員の、また出品者の創意工夫によって、民主的に討論して作り上げてきたようなものではありません。私の考えを理解し、理解とまではいかなくとも、共感し、賛同してくれた人達によって成立してきたものです。
よって、言葉はきついかもしれませんが、私に共感できない人は、書展に参加する必要はないのです。実際不参加の会員は多いのです。習字だけならそれでも良いと思うでしょうが、本当はそうではありません。その会の先生の書道に対する考え方を無心に(信じて)学びとろうと努力しなければ、10年学んでも本当の書の実力は身につかないでしょう。
ところで、私が、先に、会員通信で発言した以下の言葉に対して、異論また反論がある方がいるようですので、少し再考してみたいと思います。
「無償で、人々を励まそうと、それだけが動機ではないとしても、出品してくれた出品者に対して、来場者は感謝するべきであろう。私は、来場者に、何ひとつ感謝する気はない。会場の受付で、出品者が来場者に『ありがとうございました』と礼を言っているのは、逆立ちした、おかしな光景ではないか。我々は商売もしているが、商売のために展覧しているわけではない。」
日本人の慣習として、礼儀正しい挨拶は、それはそれでよろしいが、私たちは料金をとって商売をしているわけでもありませんし、商品を売っているわけでもありません。知人が遠方からわざわざ時間とお金をつかって来てくれたのだから、ありがたいという気持ちはわかりますが、しかし、私は、何年も前に、「野のはな書展は、お稽古事発表会ではありません」「関係者しかこない展覧会はやめましょう」「芸術としての堂々とした展覧会を創っていきましょう」と呼びかけたはずです。残念ながら、それで多くの人が去って行きました。愚かな事ですが、これが現実です。しかし、少なくとも今、私のそばにいる人は、自分の、かってな思い込みに気づいて、芸術や作品や鑑賞について迷いながらも、学び、本当に平等で、まっとうな、澄んだ人間関係を築いていってほしいと願います。
異論のあるこの方は、私を傲慢な人間だと思われたのでしょうが、確かにそうかもしれませんけれど、簡単に感謝などしないほうが良いと私は考えているのです。感謝が軽すぎるのではないでしょうか。

コメント