第20回野のはな書展(2014年5月6~11日)
- harunokasoilibrary
- 5月26日
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更新日:5月31日

ごあいさつに代えて
目を逸らすな
知ったつもりになるな
希望には希望はない
明日には明日はない
感謝には感謝はない
復興には復興はない
平和には平和はない
自由には自由はない
安心には安心はない
歴史には歴史はない
自分を忘れ
命の限りを生きよ
代表 春野かそい
(出品目録掲載文)
第20回野のはな書展感想感想
今回の書展は、僕にとっては失敗であった。
それは、僕の呼びかけに、ほとんどの出品者が応答しなかったという意味である。呼びかける力が弱かったのかも知れない。呼びかけていることすら知らない人がいたくらいだから。
何を呼びかけたのか、「出品者が一団となって、悪魔祓いをしよう」と呼びかけたのだ。
それに真っ先に応じてくれたのは空茜さんであった。
正確に言えば、僕の呼びかけに答えてくださったのではなく、シアトルさんの言葉に感動され、朗読してみたいと思われたことが、結果的に呼びかけに応じたことになってしまったといったらよいか、そのあたりのことはよく憶えていない。
昨年の夏から、空茜さんを中心に、僕の中で展覧会の準備は進められた。それは、出品されるであろう僕の書作品「シアトル首長のスピーチ」の前で、その全文を茜さんが朗読するという企画で、今回展のクライマックスである「歌の祭りコンサート」の中核となるものであった。
朗読の練習と、その伴奏の作曲が進められたが、あまりやる気の伝わってこない会員たちの姿に、僕は意気消沈し、何度か展覧会の規模を縮小しようかと迷い、制作も諦めようと思ったが、茜さんの熱意に励まされて、僕は自分の制作の準備を予定どおり進めたのである。

出演者との偶然の出会いなどもあり、次第にコンサートの形がはっきりとしてきた。『アイヌ神謡集序』の制作が加わると、茜さんの尽力でアイヌの方が参加することにもなった。
私事を申せば、辛いことや悲しいことがあり、厳しい制作情況であったが、茜さんの、野のはな書道会や、てふてふの会のメンバーや、僕に対する信頼からくる、と想われる献身的な情熱に応えるため、僕は夢を実現するよう努力せずにはいられなかったのである。
今回展は、1年をかけて、空茜さんの主動によって形づくられた、といっても言い過ぎではないだろう。
コンサートは、これ以上考えられないくらい成功したのではないか。こまかい反省点は色いろあるだろうが、そんなことは、いくら考えてもきりが無い。第一歩がなければ第二歩はない。第一歩としては完璧であった、と僕は思う。なんとも華やかなひと時だったなあ・・・・・・

茜さんだけではないが、主に茜さんの情熱で、シアトルさんと知里幸恵さんによる、人類の宝といっていい美しいメッセージが、何人かの人に伝えられただろうことを思えば、今回の書展の目的は達成されたと思われる。その意味では書展は大成功だった。
僕の願望をのぞけば、書展は、いつもの野のはな書展らしく、色いろな草花や樹木のある、小さな野原か庭園のような、命が活性化される異次元の空間であった。思い出すまま書いてみよう。
うすずみの清らかな作品、変わったスタイルの仮名作品、丁寧につくられた美しい屏風、その屏風に貼られた歌は、一日かけて、じっくりと読んでみるのが良いだろう。大陸的な中国の石碑の字、現代的な創作の書、美しい仮名の書。歪んで、悶えるように描かれた生きる喜びの書、危機的状況から生まれた切実な詩と書。未熟だが一生懸命さが伝わってくる臨書作品たち、何年もかけて書きつがれてきた臨書の力作、広い余白に海が見える作品、それによりそう童の字、土くれのような無言、悲しみと寂しさのきわみのような句と書、和語の美しい響きと、やわらかなうすずみの書、自作の詩を自分の字で書いた活き活きとした歌のような作品、苦心の跡がにじむ真心の書、日常生活からあふれ出た愛すべき書、堂々たる臨書の大作、子どもが書いたような書、見ていると楽しくなる可愛い小さな字、みめうるわしい書、無邪気な俗書、棚から落ちてきたような書。「感謝」には驚いた、言葉では説明できない書であった。長い間、書き続けてきただけはある年季の入った書・・・・・・
春汀さんの臨書には、僕の母の草花の絵と同じ匂いを感じる、丁寧に一字一字書かれていて、母の絵の花びらのようである。ただ単に丁寧にかいたからといって、このような書や絵がかけるわけがない。天性の才能と、たゆまない熱意、何よりも書や花への無心の慈しみがこのような形を生みだすのだ。このような書や絵の前で僕は人間への信頼をとりもどす。
瑞景さん(僕の母)は誰にも感謝せず、誰からも支えられず、一人で、孤独に生きてきた人だ。まことしやかに「人という字は人が支え合う字だ」なんて嘘を言わないでほしい。瑞景さんが信じられるものは無心な花だけであったのではないか。私事で申し訳ないが、瑞景さんの絵に字を書き入れないほうが良いと、いつだったか誰かに言われたことがあったが、それはそのとおりだと思う。しかし、二人で助け合って、絵と書を売って生活費のたしにしようと始めたことでもあったのだ。不純なことであった。今回、最後に、書き入れずにいられず書き入れたことを母は許してくれるだろうか。

そして、二階には、コンサート会場のための、壁紙のような僕の作品が寂しく貼りついていた。
庭園や野原のような静かで調和した書展も良いけれど、自由で活気に満ちた、にぎやかな書展も良い、と僕は考えている。上代様あり、唐様あり、現代書あり、伝統書あり、なになに流あり、とにかく書の面白さ、多様さ、芸術としての可能性、が伝わる冒険的な書展が実現できれば最高である。
そのためには固定観念を捨てて、自由な発想で、活き活きと学ばなければならないだろう。もっと誠実に、自分の本当に書きたいものだけをよく吟味し苦心して書くことも当然なことである。趣味や遊びであっても、真剣に遊ばなければ、付き合うのも退屈だ。よもや、野のはな書道会員に、書は遊びだといって書を貶(おとし)めるような人はいないと信じている。
最後に、私事で申し訳ありませんが、亡き母のため、きれいな花を供えてくださった、野のはな書道会有志の方がた、本当にありがとう。
(2014年5月・会員つうしん第132号掲載)

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