真の書の道を求めて
- harunokasoilibrary
- 2月18日
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更新日:6月1日
野のはな書道会では、創立(1992年)からこれまでに「学習のしかた」を2度改定し、今に至っています。
その過程で出された文章を3編紹介します。
「学習のしかた」の改定について (1994年10月)
考えてみて下さい。(なぜ、改定するのか。)
書道学習の目的とは何か、(書を始める動機は人それぞれですが)「野のはな」第二巻第一号(1993年4月号)の「野のはな一周年に思う」の中でも、少しふれていますが、野のはな書道会の目ざす書道の目的とは、一人ひとりが自分らしさを真に実現する能力の基礎をやしなうということです。さらに言えば、ひとりひとりに秘められた芸術の芽(個性と創造力)を実現するための土台を作るためのものです。
昔から書の学習は、よい手本にどれだけ近づくか、また手本と同じように書けるようになることが到達点(目標)でありました。手本を目標にした場合は、手本をうつすのが上手になるだけで、まれに何十年と学んだ末に自分らしい書が書けるようになる人があるくらいです。このことは、野のはな書道会の本来の目標、つまり書法にのっとった個性的な書が書けるようになるという目標からは、はずれることになります。一見、手本そっくりに書けるということは上手になったつもりになりがちですが、それは形式的で個性のない表面的な美しさに過ぎない場合が多いようです。これでは本当の美とはいえないでしょう。第二次大戦後、書の先端でははっきりと否定されているようなこと(師風への追随とか、○○流とかの流派意識などの封建的な思想)が、今もって一部の人々には常識のように考えられています。また、古典を最高の目標というあやまった考え方もあります。私達は様々のものから学びとらねばなりませんが、卑屈な奴隷根性は現代にいきるものとしては、受け入れられるものではありません。
今までの学習の方法では、今のべましたような表面的な上達はあっても、ほんとうの意味での自分らしさを実現した書には、永久に到達できないでしょう。「手本があれば書けるけれども手本がなければ書けない」とか「ふだん書く字がほとんど美しくならない」など、このような声は多くの会員さんから耳にしますし、子ども達の学校のノートを見ても手本で学んだことがほとんど生かされていないのが現状ではないでしょうか。日常の文字の中に学んだことが生かされないような学習方法はまちがっています。書というものは、雲の上に存在している芸術作品とか美術館の壁にかけられているようなもの(そういったものがほんとうにあるのならですが、ほんとうは、そういったものは、私達の日常生活や、日常の書に生かされなければならないものです。)だけではなく、私達がふだん使う文字の中にあります。
では、学習したことが日常の書に生かされてその人らしい美しさを実現するにはどうしたらいいのか。文字というものは、どんな人でもすでに自己流に何年、何十年と書いてきています。この文字は何千年という書の歴史の点検をほとんどうけていない、たとえていえば記号のかたまりのようなものです。書の道に入門することによって何千、何万年の書の歴史の中で発見されてきた書の法則というノミによって、この記号のかたまりにすぎないものを、歴史を含んだほんとうの文字に彫りなおして、いらないものを削り取り、美しい彫刻に創りかえていくようなものです。幼児なんかは、まだそのかたまりがほとんどありませんので粘土の像のように少しずつ書の法則をつけたして、像をつくっていくようなものです。ふだん書く字が、手本で学んだ法則によって少しずつ変わっていくことを喜びに思えるようになりたいものです。
このたびの改定のことですが、手本で原理・原則をしっかり学んでください。そして、手本で学んだことが、手本なしの日常の書にどれだけ生かされたかを、真の実力と考えて、検定に出品して確かめてください。真の上達のためには、自己に厳しくあらねばなりません。どうか、徐々に頭を切り替えて、困難ではあっても本当の書の道を歩んでください。
長くなってしまいました。いい足りないことばかりですが、少しずつでも目標に向かってより良い改定を続けていきたいと思います。
代表 春野海客
書について1(1996年1月・会員つうしん第19号掲載)
一昨年の10月に「学習のしかた」を改定した直後、ある会員さんから、「私は凡人ですので退会します。」というお便りがありました。私は、真の実力を養う方法について、学習する一人ひとりにとって現在の時点で私が最良と思える学習のしかたについてやや厳しくのべたのでした。「凡人ですので…」には多少驚きましたが、また、考えるきっかけにもなりました。どんなことでもそうですが、広く世界に目を向けずに、狭い井戸の中だけで暮らしていると正しい認識が逆立ちして見えるものです。偏見ほど恐ろしいものはありません。しかし、誤解されてもしかたがない状況の中に私達はいます。恐ろしい退廃文化の中で書は狂騒曲をかなでているのですから。
断っておかねばならないことは、先に「現在の時点で」と前置きしましたように、私自身が「書とは何か」また「書の美とは何か」について、私自身の能力つまり現時点の書的レベル以上には見えていないということです。しかし私は、なんとかして正しい書の世界に生きたいと願っています。だからこそ再び誤解を覚悟で機会をとらえて皆さんに問いかけつつ、真実の書の道にできうる限り近づきたいと考えています。書を始めた動機がなんであれ、皆さんも考えてみて下さい。
さて、書とは何か、その答は、数千年の書の歴史の中にあるはずです。しかし、今は足元から見ていくことにしましょう。私たちのまわりには学校の書写教育や、書道塾、習字教室があります。書の通信教育や競書誌も様々の新聞、雑誌等で毎日のように宣伝しています。私達の日常生活とはほとんど無縁な存在ですが、書壇とよばれる書家達の特殊な世界があり、その人達の書道展が大新聞社等の後援で美術館や画廊で開催されています。この書壇を支えているのは、実は、素人の主婦層なのですが、プロの集団のように思われています。その他、作家や著名人、芸能人とか文化人とか呼ばれている人達が書らしきものを発表したりしています。これらを総称して書道界と呼んでいます。書道界もプロからアマチュアまで様々なわけです。では、書とは何なのでしょう。書は習字でも書写教育でもありません。ましてや書道展のためにあるわけでも、室内を飾る家具調度品でもありませんし、芸能人のサインのような浅薄なものであるはずもありません。単なる意味を伝達するための記号でもありません。大衆が真実の書の姿を理解しないから、宗教は商売になるとかなんとかとんでもないことを考えて金もうけに走る似非宗教家がはびこるように、書道界にも書をだめにする似非書家がはびこっているのです。書をだめにすることは、実は人間をだめにすることといっても言い過ぎではありません。
改定の趣旨 (1997年5月)
先の改定より2年半、改定の結果は功罪相半ばするといったところでしょうか。ある人にとっては創作力が高まり、自分の頭で考え、調べる訓練になったようですし、別の人にとっては、難しすぎて何をしているのかピンとこないという、あまりおもしろくない結果になったようです。また学習課題の添削結果がほとんど検定作品に生かされていない人や、書の基本原則をしっかり学ぶことなく検定作品のみを我流で出品する考え違いの人が多数ありました。また書には、書くことによって見るという鉄則があります。そのことを忘れて一度も出品せずに手本や参考作品を見ているつもりになっている人もかなりありました。より書の理解を深め、書を体得するために、またひとりひとりの個性をのばし、その人らしい美しい文字を書く実力を養うために考え出された改定でした。しかしこのような悪い結果が多くでてきましたのは学習のシステムと手本が依然として旧態を引きずっていて、中途半端なものになっていたことが大きな要因ではないかと反省いたしました。
そこで、できうる限り初心に返り、勇気を奮い起こして原点にもどる決意をしました。(戦前の小学生のレベルまでもどります。)そのほうが書を愛する人にとっては、かならず益するところが大きいと考えます。書の道にとってなんら関係のない要素、たとえば会の経営や商売上の問題などからくる歪みをできうるかぎり取り除いていきたいと思います。
いうまでもなく書は書を愛する人のためにあるのです。「書を愛する」という意味はいろいろ考えられますが、「美しい文字によって美しい言葉を生み出すことを愛する」のだと置きかえることができるかと思います。美しいとは、人間的という意味です。書の学習の目的は、日常的に美しい文字を書いて、美しい世界を創っていくことにあるということができます。自分のかいた文字が一日一日、学べば学んだ分美しく磨かれて変わっていくそのことが書の楽しみなのです。そのためには、歴史的に創られ積み上げられてきた書字法をしっかり身につけると同時に現代の表現としてまた今生きている証として創作をしなければなりません。改定後は、まず50年前なら小学生でも身につけていたといわれている基本原則を学び、書を見る初歩的な基準を確立し、過去から現在まで歴史的に蓄積されてきた様々な書字法と表現を学び、書の理解を深めます。それと平行して創作法を学び創作をします。その後、書の未来を拓くのはあなた方ひとりひとりです。
野のはな書道会代表 春野海客
〈改定の主な内容〉
● 段級制度は廃止します。
段級は書道会ごとに基準が異なり、書の公的な基準にはなりえません。その会の中だけのものにすぎないものを権威あるもののごとく宣伝している書道会があるとしてら相当なまやかし書道会といえるでしょう。これは学習の便宜上の制度にすぎません。
● 練習番号制にします。
練習1番から始めて練習百数十番まで一段一段のぼっていきます。練習番号ごとに検定に合格しなければ次の番号にはいけません。上達の目安は番号でわかります。これでひとりひとりのペースにあわせた学習ができるでしょう。
●認定状、免許制は廃止します。
月謝なり学費を毎月はらって学習しているにもかかわらず、あらためて免許料を負担させるというのはおかしな話です。
●検定締め切り日はなくなり、検定回数は無制限になります。
(後略)


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