炎のように
- harunokasoilibrary
- 2月1日
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更新日:6月1日
「子どもの権利条約」の制作は燃焼しきれないまま終わった。
なぜ、ぼくはこれを書いたのだろうか。
展覧会に出品するために書いているのだが、もちろんそんなことのためにだけ書いているわけではない。
一昨年、「9条」を書き終えて、タイトルを「美しき森」と名づけたとき、すでにことばの森のビジョンが連鎖反応のように脳裏をかすめていた。
ことばの森のビジョンとは、人類の最先端の思想を表した数かずの人間らしいことばのことであり、それらはことばにすぎないが、理想に燃えた、人類の代表者たちによって創られた法律や条約や宣言であった。
そいうわけで、昨年そのビジョンの一つである「世界人権宣言」を書き終えたとき、この条約の制作もすでにぼくの心の中で決まっていた。
ふたたび根源的に、なぜ、それを書くのか。
「九条」の制作にぼくを突き動かした一人の女性の人間性が大きい。
それから、何かはっきりと言えないが、「なぜ山に登るのか」と尋ねられ、「そこに山があるからだ」と答えた登山家と同じように、「なぜ書くのか」には「そこに登らずにはいられない言葉の山があるからだ」と答えようか。
また、傷つき、死にそうになっている理想をどうにかして助けたい、助けねばならない、助けずにはいられないから書いたともいえる。
よく解らない力がのりうつって書かされているようにも感じる。
「美しき森」と名づけてはいるが、ぼくは美しい文字を書きたいのではない。
美しさよりは強さを、活力を、バイタリティを書きたいと思うのである。
また、法律や条約の素晴しいことばやその意味をぼくは書きたいのではない。
これらの条文は、確かに立派で、優れた、大切な内容のことばである。
まちがいなく人類の叡智と人間らしさと信頼の結晶であると思う。
このような理想を創りだした人類に感動しない人間は人の皮をかぶったヘドロのようなものであると思う。
芸術作品とは体裁や趣味や壁かざりではない。
逃避や癒しや娯楽のためにあるのでもない。
現実社会とは関係のない、色や形や音の、趣味の良い組み合わせや調和のための、心地よい高等な遊びでもない。
芸術はことばの背後にある存在の根源に光をあて、人間をより深く豊かにし高めるものである。
ある日、ふろ場で、突然、老いた母の姿が浮かび、近いうちに別れが来る予感に命の哀しさを思い、不覚にも涙がこみあげた瞬間、「余白を書け、余白は命だ、命を書け」と母が教えてくれたように感じ、余白と命の輝きとの関係にいまさらのように気づかされた。
線は生命力に溢れ、余白は生き生きと輝かねばならない。
次の日から余白の輝きを出すためにグイグイ書いてみたがうまくいかない。
太いだけで、こけおどし、輝きどころか汚くなるばかりである。
考えすぎて頭でっかちになり、作為が見えて自然な力強さがない。
こんどは何も考えず、叩きつけるように感情を爆発させてみたが、荒荒しく乱暴で形はくずれ、余白は死んでいる。
乱暴さを反省して、もっと心をこめて優しく流れるように書いてみたが情緒的すぎてセンチメンタル、まったく生命の輝きが出てこない。
それならばと、子どものように無邪気に、のびのびと、楽しんで書いたつもりだが、子どもになれるわけもなく、虚しい試みに終わった。
それではやはり、基本に戻らねばならないと、きちんと形を整えて丁寧に、ほどほどの太さで書いてみたが、伸びやかさのない、きれいなだけの俗書になってしまった。
手はまだあるぞ、用筆のリズムを変えて複雑な線を書けばと書いてはみたが、ますますわざとらしい、作為まるだしの卑しい線になってしまった。
ついに打つ手もなくなって、からだは疲れるばかりであった。
笑われるだろうけれど、ぼくは太陽のようなものを創りたいと思っている。
太陽はとてつもない力で命を育み、暖めているが、迫らず、静かに輝いている。
本当の芸術作品は、太陽のように生命力あふれるものである。
見る人が正視できないほどの強力な光を発するけれど、本質的に、人間に生きる力を与えてくれる存在である。
芸術は人が生きていくうえで、太陽のように、なくてはならないものである。
好き嫌いのように、在っても無くてもよいようなものではない。
「子どもの権利条約」は2900字あまりの文字が21枚の紙に書いてある。
はじめに、字配りを考え、ほぼ均等に21枚の紙に書くように計画された。
その計画にしたがって書くのだが、いろんな事情があり、1日12時間書いて3ないし4枚しか書けず、完成までに6日かかった。
昨年書いた「世界人権宣言」を超えなくては、ぼくには書く意味がない。
悪戦苦闘して筆法を様ざまに駆使したが、うまくいかなかった。
楽しんで書くどころではなく、体力と気力も限界に近かった。
これだけ大きな作品となると、やりなおしがきかないので、紙の枚数がなくなるにしたがって解放が近づく喜びよりも、書けない焦りが出てきて、最後の最後まで自分の力不足を痛感することになってしまった。
光が見えないまま、最後の41条になって、突然吹っ切れて、自由自在に書きなぐったら、自分らしい線が書け、我ながら楽しい気分になって、やっと生き生きと、のびのびと書けて、解放され、嬉しくなった。
この間の事情は人には分からないだろうが、最後の3行の、奇妙で力強くて軽やかな、明るい響のところがそれである。
何が起こったのか、ぼくには解らないけれど、かすかな希望が生まれたように感じ、失敗作ではあるが、書き終えて少し笑みが浮かんだ。
制作の過程で次に書かねばならない作品が見えてきた。
2006年12月13日に国連で採択された「障がい者権利条約」である。
まだ「美しき森」の呪縛から解放される日は遠いようである。
こんどこそ、燃えさかる生命の炎のような作品を書いてみせよう。
(2011年4月 会員つうしん第113号掲載)


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