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注意深くあること

  • harunokasoilibrary
  • 4月15日
  • 読了時間: 5分

更新日:6月1日


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 少し前、夏の盛りに紅葉した桜の葉が、今足元に錆鉄色になって秋風に吹かれている。いつの間にか、あちこちの桜の梢が色づき始めている。真赤な彼岸花が群がって寂しそうに咲いていたのは昨日のことであった。夢のように私の前を通り過ぎた花盛りのコスモスは枯れ始めているが、遠く高い空には、北斎の版画に描かれたような、繊細でとてつもない力を持った雲が静かに浮かんでいる。強風に抵抗したのだろうか、川辺の大きな柳の太い枝が付け根から折れている。鯉たちが川の流れに向かって静かに止まっているように見える。川はきらきらと楽しげに流れ、鴨も鷺もゆったりとくつろいでいるようだ。耕された黒土(くろつち)は日に日に淡緑色(うすみどりいろ)の植物に覆われていく。桜も彼岸花もコスモスも野菜も大地が姿を変えたものに違いない。鳥も魚も雲も大地と水が姿を変えたものだろう。太陽と月は、死の恐怖に取り付かれ必死で歩いている年配の男女にも、眉間にしわをよせ、ひたすら前方だけを見てロボットのように足早に歩いている男性にも、一つの観念にとり憑かれ、大きなゴミ袋を片手にゴミを夢中で拾いながら右に左にとせわしなく歩いてくる老人にも、携帯電話から聞こえてくる愛の骸(むくろ)に縋(すが)る若者にも、ただ無情の光をなげかけている。幻想にとりつかれた愚かな人間のことなど太陽には関係のない事だろう。

 

 自然はすべて新しく、幸せな光に満ち溢れている。私の体(からだ)は空気の壁を切り裂くかのように進む。新しい風が体を撫でて通り過ぎて行く。私は生命の中を突き進んでいるのかもしれない。

 峠から見る山も空もいつも新しい。小さな新幹線が長い虫のようにゆるゆると這って行く。自転車に乗って、もう何度この峠から人間のつくった犇(ひし)めき合う物のむこうにある山と空を眺めたことだろう。峠には花山洞(かざんどう)というトンネルがある。花山洞を過ぎるとそこは清水(きよみず)である。私はやきものをするために清水に通っている。私にとって花山洞の向こうはやきものの世界である。

 

 電動轆轤(ろくろ)で作るとき、土をこねてから土殺しをする。土殺しは、回転する轆轤の上で土を絞めながら上げ下げして、土の中の空気を無くし、轆轤の中心と土の中心を合わせるためにする。土練りと土殺しは、ちょうど書道で墨を磨るようなものである。私はあれこれ構想を練りながら土をこね芯を出す。土殺しは集中しなければ危険である。

 仕事場では何人もの人が働いている。この人たちは私の集中を邪魔しないように気を配ってくれているようである。私は朝から夕方までほとんど轆轤から離れないが、他に仕事をしている人やお茶を持って来てくれる人の動きをいつも感じながら仕事をしている。作りながら周りの気配を常に感じている。飛んでくる虫の様子も、天窓から差し込んで来る太陽の暖かさも、人びとの笑い声や歓声も私には何の差し支えもない。しかし、私の仕事を大切にしてくれるこの人たちの心遣いに心から感謝せずにはいられない。

 

 多くの人は、集中することは大切なことだと考えているようだ。しかし、ほんとうにそうであろうか。祈っている人は集中している人である。それをはたから見ていて美しいと思うかもしれないが、その行為は自己の想いに囚われた利己の姿ではないだろうか。字は集中しなければ上手く書くことは出来ない。スポーツ選手は集中して自己の記録や勝負に挑む。その集中した姿を美しいものと感じるかもしれないが、それも自己に囚われた利己の姿ではないだろうか。幼い時から学校でも家庭でも、散漫な人間にならないように、集中出来る優れた人間になるようにしつけられ、集中して自己の夢の実現に没頭し、競争に勝ってひとかどの人間になることが善い事だと教えられる。もちろん集中しなければ出来ない事はいくらでもあるだろう。しかし、集中することは単純に良いことだと考えるのは浅はかかも知れない。

 

 集中とは排除することである。自己の願望のみに執着(とらわれ)て他を排除することである。集中する人は愛のない人である。集中する人を美しいと感じるのは刷り込まれた幻想ではないだろうか。

 私は自分の作品を作るために集中して、周りのものを排除したくはない。集中して作られた作品にどれほどの価値があるというのであろうか。愛のない作者に何の価値があるというのか。馬鹿げた事である。

 ほんとうに大切なことは、注意深くある事ではないだろうか。自分のやらねばならない仕事をきちんとやりながら、周りのすべてをいつも注意深く感じていること。集中して周りのことを忘れてしまう愚かな人間にはならないこと。私たちはいつも世界のすべてのものとの関係の中でしか存在できないのだということを忘れてはいけないと思うのである。思いやりは集中からは生まれない。注意深い心にだけ愛は訪れるのではないだろうか。

 

 人間は集中するように教育しなくても、興味ある面白いものには自然と集中するものである。私は猛暑のなかいつも私を救ってくれたありがたい命のお茶を持ってきてくれる女性にまったく気づかずに制作に没頭することたびたびであった。なさけない事である。

 (2006年10月・会員つうしん第86号掲載)

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