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書聖(しょせい)の顔 

  • harunokasoilibrary
  • 5月4日
  • 読了時間: 5分

更新日:5月31日

 顔は内面が外に現れたものである。顔は内面の動きに応じて常に動いている。内面がその人そのものだとすると、その表情はその人そのものである。顔という表面にはその人の全てが出る。

 不思議なことに、だれも本当の自分の顔を見ることが出来ない。鏡に映った顔は虚像であるし、写真も真ではない。しかし自分の顔は他人には見える。自分を知りたければ、他人の反応を見て自分の真の姿を想像するしかない。

 人の値打ちは顔や外面ではない、大事なのは内面の心である、などと言ったりもするが、大事なのは顔である。表面が大事なのである。表面は内面と対立するものではなく、それらは同じものだと僕は考えている。とくに芸術作品は表面が全てである。感覚にうったえるのは、作品という表面でしかない。芸術は作品とそれを感じる感覚という二つの表面の接触によって、内面に感動を生む営みである。

 自分の内面が線になって表面に出る書は、人の顔のようである。書の線にはあるがままの自分が表れる。「書は人なり」とはこういうことである。自分の顔は見ることが出来ないが、書に映った自分の顔は見ることが出来る。

 

 書がそれを書いた人の顔になったのは、今から1700年ほど前の中国、王羲之(おうぎし)のころからと思われる。それ以前の書は神聖な文字か事務的な記号に過ぎなかった。書が書き手の思想や感情といった人の内面はもちろん森羅万象をもことごとく表現できるようになったのは、王羲之のころからである。王羲之以前に芸術の種は蒔かれてはいたが、王羲之の作品によって、書は芸術である本性をはっきりと現したのである。王羲之に象徴される人間性の発達と紙や筆など用具の発達がその原動力だと思われる。

 王羲之は風の音をどのように聴いたであろうか。水に何を見たであろうか。火に何を感じただろうか。雲や空の青さに何を想ったであろうか。山や木に神を見たであろうか。太陽や月や星に宇宙の理を悟ったであろうか。死や生や老いをどのように受け止めたのであろうか。国や戦争や政治とどのようにかかわったであろうか。家族や子どもや友人たちをどのように愛したのであろうか。

 王羲之は雲をみて自由を夢みたであろうか。風に吹かれて新しい時代を想い描いたであろうか。暴力や戦争を憎んだであろうか。

 王羲之は彼の時代を一生懸命生き、悲しみと喜びの中で人知れずその生涯を閉じたのであろうが、羲之像として伝えられている肖像画や銅像の顔よりも、夥(おびただ)しい数の羲之の手紙のほうがその真の姿を伝えているだろう。遺された書こそ王羲之の顔そのものである。その顔は美しく輝いているだろうか。失望と幻滅に曇っているだろうか。恐怖と悲しみに泣き濡れているだろうか。それとも怒りに風神のように荒れ狂っているであろうか。地位と栄光に満足した豚面(ぶたづら)であろうか。

 王羲之が如何(いか)に書聖と崇められていようが、その書を模倣してはいけない。俳聖と崇められている芭蕉は、「この道に古人なし」と言った。僕も同じように「書の道に古人なし」と言おう。古人から学ぶことはいっぱいあるのは言うまでもないが、大切なことは現代(いま)を書くことだ。現代という現実を直視することが大事である。偉大な古人は、すべてそのようであったと僕は思う。それが本当の書の伝統である。


 如何に偉大な古人の作品であっても、理屈ぬきに感性に響かないものは黴(かび)の生えた無用のものである。芸術は現代を表現してこそ意味のあるものである。芭蕉の句はゴッホの絵のようにまるできのう制作されたかのようである。これこそ芸術である。芸術は常に新しく、時代を超えたものである。書の知識や学者の博学に惑わされてはいけない。自分の感性を信じることである。過去に囚われてはいけない。書であろうがなかろうが筆を持って現実に立ち向かい、琴線(きんせん)に触れるものは、大きな世界も小さな世界も等しく全身で受け止めて、生命を燃焼させなければいけない。古人に耽(ふけ)って臨書に明け暮れ、現代を生きない書などは一文の価値もない。書道は流行しているようだが、書というものが教育や実用といったような書道事業家の利益の都合で歪められている現状を思えば、その隆盛は喜ばしいことではない。芸術である書は、あらゆる束縛から人間を解放するものでなければならない。自由こそ芸術の芸術たる所以(ゆえん)である。


 僕は王羲之によって書の芸術に目覚めたわけではない。書を始めた頃、書者の名は思い出さないが、美しい文字を見て、自分もそのような美しい文字を書けるようになりたいとただ願い、何も解らないまま、ひたすら手本の字を書き写していただけである。書は大変難しく、手本のような立派な字が書けるようになるとはとても思えなかったけれど、手本をなぞっていると、心地よい音楽につつまれているような幸福感があった。単純に、美しいことばを美しい文字で書くことは、心洗われる悦びであり、僕にとって、初めから書は芸術であった。その僕の初心の源(みなもと)が王羲之であることに、僕は驚きと畏敬(いけい)の念を抱かずにはいられない。

(2009年12月・会員つうしん第105号掲載)

王羲之「集字聖教序」より
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王羲之「喪乱帖」より
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