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書法ノート

  • harunokasoilibrary
  • 3月14日
  • 読了時間: 19分

更新日:6月1日

 原広司という建築家がいる。JR京都駅の設計者だ。この駅の外観は、僕の好みではないが、駅の内部の広々とした空間は、ブリューゲルの絵のような、そこで全てが繰りひろげられている一個の宇宙のような、豊かさを感じる。その原広司に『集落の教え100』(彰国社刊)という著書がある。これは、建築理論の書物だが、小説家大江健三郎は、文学を作ること、また読むことへのヒントとしてこの本の理論がいかに有効であるか『新しい文学のために』(岩波新書)の中で述べている。僕も大江さんを見ならい、このすばらしく面白い二つの著書をヒントにして書法について考えてみたいと思う。

※ 青字は原氏のことば、緑字は大江さんのことば。

 

【1】    あらゆる部分

 あらゆる部分を計画せよ。あらゆる部分をデザインせよ。偶然に出来ていそうなスタイル、なにげない風情、自然発生的な見かけも、計算しつくされたデザインの結果である。

 

 小説も、この「集落の教え」どおりに、あらゆる細部のイメージ、細部の言葉・語法について、書き手がデザインするものでなくてはならない。つまりそれぞれのレヴェルで、書き手が「異化」の努力を行うのでなければならない。

 

 書も同じように、一字という部分、さらに一字の中の一点一画という部分、さらに一点一画の中の起筆、送筆、収筆という部分の書き方についてデザインするものでなくてはならない。何行かある全体の中では、一行もまた部分ということになるだろう。また一つの作品全体も、より高次の全体の部分ということにもなるだろう。部分は全体であり全体は部分であるといってもよい。

 

【2】    同じもの

 同じものはつくるな。同じものになろうとするものは、すべて変形せよ。

 

 既成のイメージを歪形することに想像力の働きがある。(略)自分のいま書いているものが、具体的に誰かれの模倣とは思わないが、なにかこれまでに読んできたのと同じものではないかと感じる。(略)そこで自分の書いたものを、あらためてそれがものの手ごたえのある、見なれぬ、不思議な印象をきざみだすまで、観察しなおし、考えつめ、そして変形し、歪形することが、小説を書くことである。詩を書く場合、なおさら端的にそうであるだろう。

 

 初唐の楷書─九成宮醴泉銘や雁塔聖教序など─は、書の基本といわれている。ほんとうにそうだろうか。初唐の楷書を基本形・標準形としてもよいが、またしなくてもよいとも思う。いうまでもなく、ある形式にしたがって初唐の楷書は書かれている。それと同じように初唐以前の書も、初唐以降の楷書や行書もそれぞれにそれぞれの形式を持って書かれている。が、しかし初唐の楷書の形式が、その後の全ての書の基本であるという常識は間違っているのではないか。むしろ、それぞれの時代に、それぞれの基本形式(基準)があると考えられる。さらに言えば、基準は、個人が自由に過去の達成から選択すればよいのである。それぞれの時代の文字はそれぞれに独立してあるわけではない。目に見えない糸でつながっているのである。歴史がどのようにつながっているのか、具体的に知らねばならない。そして、個人の基準に照らして、人はそれぞれの書を発見するのではないだろうか。

 こどもは本人が自覚するまでは、その時代の形式─そんなものがあると仮定しての話だが─を教育によって強制的にか、また社会の中で自然に─無意識的に─すり込まれてゆく。それでは美しいものはつくれないのではないか。自覚的に同じものをつくらないと悟ったときからほんとうの書が始まるのだ。初唐の楷書は、研究しなければならないが、初唐の楷書と同じものをつくってはいけない。臨書は、似てないものを書けるようになるために似せて習うようなものだ。

 自然界の木や石には、同じものは一つもないが、石は石として木は木として我われ生き物が認知できるだけの類似した形式を持っている。それと同じように書かれた楷書には、同じように見えても、同じものは一つもないが、それぞれの楷書を楷書として我われが認知できるのは、そこに類似があるからだ。類似は我われに安心をあたえる。しかし我われが、ある一個の石を美しいと感じるとき、その石は、特別な石である。石一般ではなく具体的な、他のいかなる石とも異なる、世界にただ一つの石である。それと同じように、ある楷書を美しいと感じて、その存在を意識するとき、そこでは類似していることよりも、他のものとの差異により、その美しさを感じているのではなかろうか。

 王羲之が、同じ字を、それぞれちがえて書いたということも、類似と差異と変形の原初的な現れかもしれない。

 

【3】    場所

 場所に力がある。

 

 小説においては、その最初の数節に物語の進行する場所をはっきり提示することが重要である。(略)むしろ場所というより、場といったほうが、通りがいいかもしれない。(略)たとえば磁力の場。小説のひとつのパラグラフ、ひとつのシーンは、多様な意味で、磁力の場である。当の場を支配している磁力との関わりによって、はじめて、人物たちはその作品で独自の意味を持つ。イメージの意味も、固有のものに限定される。文章がそこでそれのみの、つまりただ一度きりの文体として作品を特徴づけるのも、場の磁力と関わっている。言葉のレヴェルでいえば、いちいちの言葉が印刷されたページから立ちあがって来る存在感を持つのも、その場の磁力との関係でこそなのだ。(略)

 

 書かれた字だけが大切なのではない。字を書くことによってそれまで単なるものであったものが、生きた空間に、いい換えると、ある力を持った場に変化しなければならない。字を書くということは、字の書かれていない余白を生きた力のある場所につくり変えるということでもある。作品が、ダイナミックな一つの世界なり、宇宙なりのモデルにならなければならないということだ。そのことを自覚して紙の形や質をよくよく選択しなければならない。表現素材である紙や木や石が単なる紙や木や石のままであってはいけないということだ。また作品を展示する場所のことも考えなければならない。場所にはそれぞれの場所固有の力がある。作品は、場の力と共同して新しい空間をつくらなければならない。作品が大きすぎても小さすぎても場の力を発揮させることはできない。展示する場所は、壁の面積だけでなく、色彩や光(照明)、天井までの高さなど様ざまな要素が複合して固有の場の力を形づくっている。作品の場の力は展示空間の場の力と共同して生き生きとした生命空間をつくらねばならない。表具も作品や展示空間の場の磁力を形づくる大きな要素の一つである。

 

【4】    離れて立つ

 離れて立て。

 

 (略)ある長さの文章・パラグラフにおいて、ひとつのイメージのかたまりを作る。そのようにして分節化したイメージを、かたまりからかたまりへ連結する。それをつうじて、小説の全体が作りだされる。さらに分節化ということは、小説の様ざまなレヴェルで行われる作業である。小説において、それぞれの人物は、互いに分節化されていなければならない。人物たちをしてそれぞれに離れて立つことを、小説のなかでの基本態度としなければならないのである。分節化がよくなしとげられてはじめて、イメージのかたまりが、あるいは人物たちのおのおのが、相互に自立しながら、強い一体性、連帯を実現することも可能になる。

 

 複数の字の作品の場合、その中のどの一字を取りだしてきても、その一字は個性的で自立したものでなくてはならない。散らし書きなどで、一行なり一かたまりなりを取りだしてきても、その一かたまり、一行がそれだけで自立した作品になるくらいでなくてはならない。またその自立した一かたまりなり、その一かたまりの中の一字は、それぞれ自立しているだけでなく他との一体性を実現していなければならない。どこかに中心があって、その中心をきわだたせ、まつりあげるように世界を形づくるのではなく、中心はどこにもなく、一字一字が自立した太陽であると同時に他との強い連帯を実現しているようにつくらねばならない。これは、原氏のことばを借りていえば、ものごとの新しい関係、新しい解釈、新しい言葉を求める中で実現されるであろう。さらに敷衍して言えば、一つの書展の出品作のおのおのが相互に自立しながら、強い一体性、連帯を実現しているならば、その書展は生きいきしたすばらしい一つの作品になるだろうと考えられる。

 

【5】    すべてのものにすべてがある

 すべてのものにはすべてがあるのだから、どんな小さなものでも世界を表現できる。

 

 詩人には、作家においてよりもさらに、この意識がはっきりいだかれている。同世代の詩人、谷川俊太郎が、比較的短い詩型のなかに表現してみせる、その世界観と宇宙についての構想に、僕は若い頃からずっとひきつけられてきた。ウィリアム・ブレイクが、直観的な思想として次のように強く主張したのにも教えられてきた。《一粒の砂の中に世界を見ること、野生の花の一輪に天国を見ること、きみの手のなかに無限をとらえよ、一時間のうちに永遠を。》小説の書き手もまた、この「集落の教え」を信頼して、いかにも小さい短篇にも、そこに自分としての人間観・世界観・宇宙観が表現されうると考え、創作にむかうことが必要であろう。

 

 作品の価値は、作品の大小というスケールでは、はかれない。もちろん字数の多少によって作品の価値をはかることもできない。また、なにを書くかによって作品の価値が決まるわけではない。「花」一字を書いたものに比べて「憲法前文」を書いたもののほうがより価値があるなどということはないのだ。大切なことは、とるにたりないような―そんなものがあるならばだが―小さなものにもどれだけ深く広い世界を視つめ発見することができるかということだ。またなにを書くかは個人の問題である。それよりもいかに書かれているかが重要なことである。自己がとりつかれているかもしれない先入観やイデオロギーから自己を解放することが書の表現活動でもある。

 我われは、自然の一部ではあるが、全体の中に埋もれた部分ではない。大河の一滴のようなものではないと僕は思う。我われ一人ひとりは、大宇宙と同じ一個の宇宙である。我われを構成している細胞の一個もまたそれだけで一個の宇宙である。我われ一人ひとりの中にすべてがあるのだ。我われは自然の部品ではなく自然そのものであり、自然という全体でもあるのだ。書は、自立した一個の宇宙が、どんな小さなものにも在ることを、宇宙のモデルとして表現しなければならない。だから、色紙や短冊といった小さなものに書く場合も、趣味的に書くのではなく、巨大な宇宙と同じものが表現されうると考え、自己の全生命をかけて対象にむかわねばならない。

 書を書くことは、新しい言葉を表現することであって、単に字をきれいに書くことではない。新しい言葉は、新しい人間関係、新しい精神構造によって生まれると思われる。たとえ新しい世界が、現実に実現されていなくとも、我われは、想像力によってそのモデルを表現することができるのだ。表現されたものが真実のものなら、いつの日かその世界は、かならず現実に実現されるだろう。また心ある人びとを力強く励ますことにもなるだろう。古い言葉を書く場合も、それにこびりついた汚れをきれいに洗い流して新しい新鮮な言葉につくりかえなければならない。大江さんのことばを借りて言えば、過去と現在をつなぐのは、新しい光によって可能なのだと僕は思う。新しい光によらなければ保守反動頽廃のもと芸術はなんの力も持ち得なくなるだろう。

 

 神秘主義的かもしれないが、新しい光とは、古く、人類の誕生以来ある、無垢の光である。僕には、今のところ、それを、正確な言葉で言い表すことができないが、それは、自然の中にもあるし、幼児の中にもある。非常に穏やかで、やわらかいものである。武満徹のいう「祈り・希望・平和」の心といってもよいかもしれない。

 

【8】伝統

 ある場所の伝統は、他のいかなる場所における伝統でもある。

 

 この「集落の教え」は、文学が異分野の達成からなにを学ぶか、ということについて教える。また日本文学がヨーロッパやアメリカの、またラテン・アメリカやアフリカの、さらにはアジアの様ざまな国の文学からなにを学ぶか、ということについても、基本的な原理をそれは示している。音楽の分野で作曲家武満徹が、日本の近代音楽の歴史的な展望をいかに受けとめ、新しくかれ自身の音楽をいかに創造してきたか、僕はそれを時代を同じくする文学の側の人間として見つづけることで、日本文学の伝統とのつながり方を定めることができた。さらには外国文学を、それぞれの国の文化の歴史的な文脈において、全体としてとらえてゆくことから、僕は豊かに学ぶことができたと思う。おのおのの作品・作家について見れば日本文学の世界とははっきり異質のものでありながら、そのような作家・作品をひとつの国・ひとつの文化の総体に位置させてゆくと、こちらにも有効な明確な方向性が見えてくる。それは自国の文化・文学の方向性のなかでの、端的な励ましとなる。つまりは伝統ということの、生きている人間にとっての意味が、くっきり見えてくるのである。

 

 我われ、書を学ぶ者は、異分野の達成に常に目をくばり、そこから多くのことを学ばねばならないことをこの「集落の教え」は教えてくれる。

 異分野の芸術と比べてみよう。書は面に書くところや時間の経過にしたがって作品ができあがってゆくところは絵や音楽と共通している。形を造るところも絵や彫刻と同じである。線は絵にもある。書の線は、トン・スー・トンがあるところが絵のドローイングの線とは違うと言ってみても、それは、書き方の違いであって本質的な違いだとは思えない。線は線なのである。言葉を書くところは文学と同じであり、漢字やかなの集合は建築にも共通する。書はたしかに書の独自の顔を持っているのではあるが、書の伝統は異分野の芸術の伝統でもあると言わなければならない。

 戦後の日本で、戦前の反動のように一時的には、ラジカルに伝統を否定し、革新、自由、解放のスローガンのもと、日本文化を目のかたきにしてきた人びとも、しばらくすると、伝統の重みに気付いたようだ。そこで、様ざまな分野で優れた人びとが、欧米の民主主義思想や個人主義といった新鮮な思潮と、日本の伝統との葛藤の中で、それぞれの新しい芸術を創造していった。作曲家武満徹は、その最も典型的な芸術家である。

「…時代と馴れ合ったり『伝統』を無批判に受継ぐことは、(略)それぞれの民族文化が永い時をかけて受継いできた夢の胚子を掬いあげ育むことにはならない。たしかに私たちは、(略)時代の、また地域社会の特殊性からの制約、つまり文化の制約を遁れることはできないかもしれない。だが、然うした制約から自由であろうとする(人間の)営為、寧ろその眼に見えない欲望こそが『伝統』というものであり、あるいは『古典』なのではなかろうか。…」(武満徹)

 

 書の特性とはなんだろうか。文字を書くことか?しかし、文字は、多くの国で書かれている。筆を使用することか?構造が多少違うが、筆は西洋でも使用されている。墨を使用することか?絵具の黒や黒インクと墨が本質的に違うものだとは思えない。紙は言うまでもない。書体が、いくつか変化したことだろうか?現在のアメリカ合衆国には千以上の書体があるそうではないか。漢字は時代を経るにつれてその数を増殖させる不思議な文字であることか?しかしそれも、アルファベットの組み合わせで無限に言葉を作っていけることと本質的にかわらないのではないか。このように考えてみると、東アジアの書の伝統と言ってみたところで、世界中いたる所にある伝統と本質においてかわらないものであると言わなければならない。

 書は、東アジア漢字文化圏以外の他のいかなる地域にもない、偉大な伝統芸術であると豪語してみたところで、我われの心を何ひとつ豊かにするものではない。地理的にも、時間的にも異なった文化との共有構造に学ぶことが書の伝統を真に継承することにつながると僕は思うのだ。我われは、日本人である宿命から逃れることはできない。しかし、だからといって、現代日本人が、日本人としてのアイデンティティーを認識しているわけではない。むしろ、日本は、現代の多くの日本人にとって遠い存在であるだろう。我われは、日本文化の伝統を深く認識することによって、世界中の様ざまな文化との差異と同時に人間としての共有心を認識しなければならないと思うのだ。

 伝統とは原氏の言うように、ナショナリズムに属する概念ではなく、インターナショナリズムに属する概念なのである。人間は確かに東と西では異なっている。中国と日本も、関西と関東も、そして僕とあなたも異なっている。全て異なっているといってもいいだろう、しかし人間は人間ではないか。人間は全て似ているではないか。矛盾ではあるが、差異と類似は一如といってもよいのではなかろうか。人間は、身体的にも生活的にも、人間としての共有構造を持っているのである。

 

 重ねて言うが、日本文化の伝統を深く学ぶと同時に異民族の文化の伝統も深く学ばねばならない。そうすることによって日本文化の伝統が日本だけの文化にあるのではなく世界中にあまねく存在しているところの、人類に普遍的な伝統でもあることを悟ることになるだろう。言語や慣習を越えて、その心の深みにまで達するとき、我われは、人間の伝統とは何か、はっきり認識することになるだろう。自国の文化伝統を唯一無二だと誇るナショナリズムは、かならず誤った結果をもたらすことだろう。余談ではあるが、真の伝統とは人類共有の心の伝統のことではないだろうか。さらに言えば、祈りの心、希望と平和の心、温かい慈しみの心のことではないだろうか。さらにひとことで言うならば、愛ということではないだろうか。

 僕は日本の伝統を深く学びつつ伝統とは何かについて問いつづけてゆきたいと思う。俳優山本安英の次のことばは、異分野からの大切なメッセージの一つである。

「『夕鶴』のもとになっている民話は、(略)千年ぐらいも歴史がたどれる話のようですが、(略)民話はもう昔のように農家のいろりばたでは語られなくなりましたし、(略)それなのに、またこうして『夕鶴』やそのほかの民話劇が(略)盛んにやられるようになってくるということは、しかも中国だけでなくヨーロッパでもとりあげ上演されているということは、その底に昔から、全ての国の人々に共通する心が流れながら、しかしそれが新しい時代の芸術創造を経て生き直したからこそのことだと思います。」

(山本安英「古くて新しいものを」より)


【9】秩序

 表現されたものは、すべて秩序づけられてしまったものである。この世にはほとんど、秩序しかない。すべての集落や建築は、秩序づけられてしまっている。

 

 線や文字の書き方にしろ、作品全体の構成にしろ、すべて秩序づけられている。どんなに勝手気ままに書いてみてもそこにはなんらかの秩序づけられたものがある。我われは秩序の中にどっぷりつかっている糠(ぬか)漬けのようなものかもしれない。秩序に対するものが混沌であるとしたら、混沌は表現することが不可能である。なぜなら表現されたものはすべて秩序づけられたものだからである。よって混沌とは理念でしかありえない。自然は混沌であると私は考えている。自然を観察した人間が、言葉やその他の方法で自然を表現したとき、その表現された作品に秩序が生じるが、それは自然そのものではない。私の考えるように自然が混沌であり、混沌は表現不可能であるとするなら、我われには、自然を表現することはできないことになる。我われの作品は自然の一つの解釈にすぎない。本当のところ自然は自然であって、秩序でも混沌でもないのではあるが、私は自然を混沌という秩序によって説明している。これは矛盾である。

 科学的認識にしろ芸術的表現にしろそれらは、人間の世界にだけ通用する秩序づけにすぎないように私には思われる。自然は我われの表現をはるかに超えた存在である。人間は、ついそのことを忘れがちである。世界の主人公は人間であると思い上がり、自然を、都合よく解釈して自己のために利用し、使用することしか考えなくなる。こりない人間の前に自然は、何度も、その底知れぬ力を示したにもかかわらず。ともかくそのような限界をもった、個人にしろ集団にしろ人間が、従来の方法では説明不可能な現象に直面したとき、つまり混沌に直面した時はじめて、新しい方法を発見することも可能になるように思う。新しい方法は、秩序づけられた自然を惰性的に繰り返すことからは生まれてはこない。過去に秩序づけられた方法をいくら学習してもそこからは何ひとつ新しい表現は生まれてこないということだ。新しい表現は、現状を肯定する不足のない人間、足るを知る人間からは生まれにくいと私は思う。現状では人間として生き続けるのが困難と感ぜられる人間、不幸な孤立した個人また集団、いわば地獄のふちに立った人間によって新しい表現は生み出されるだろうと私は思う。これは精神的な場合もあるし社会的政治的な場合もあるだろう。

 新しいものなど必要ないというかもしれないが、それはそうではない。「新しい音の世界へ立ち向かうことが、古い世界を深めることと重ならなければ、その新しい音の世界は普遍性を持ちえない。」と作曲家武満徹の言う意味で、やはり新しいものは生まれなければならないのだと私は考える。私が考えなくとも常に新しいものは生まれてきたし、これからも生まれつづけることだろう。それが自然と人間の認識を深めながら、人間の苦悩や愛や死の問題をより高く深く解決するという人間の人間たる所以ではないか。自然そのものは、表現不可能であっても、新しい表現は、新しい秩序の始まりとなり、自然という混沌に我われは無限に接近することになるのだ。表現を試みる人は、既成概念や固定観念にとらわれずに、常に感受性を新鮮に保ち、眼前の事物から混沌を発見するように、努めねばならない。たとえ混沌は表現不可能だとしても、混沌を新しく秩序づけること、それが創作であり表現なのだ。さらに古典や他者の作品を臨書(読む)したり鑑賞するとき、その秩序づけられ方を読み取ることは、創作にとっても欠かすことのできないことである。

 

【10】矛盾

 矛盾から秩序を育て上げよ。

 

 既成の秩序に対して、できるかぎり大きくへだたった、矛盾の場所から出発する。現にある秩序への、できるかぎり強い否定から出発する。その時はじめて、強力な想像力のジャンプが可能になる。そのジャンプの高さ・長さが自分のものとして作りだされる新しい秩序としての、作品を決定する。秩序─反秩序─新しい秩序という段階を想像力においていかに振幅の大きいものにしうるか?そこに新しい書き手の先行きはかかっている。それは新しい方向へと読みすすむ、知の作業の展開についてもまた、おなじくいえることだ。

 

 現状に対する否定からしか新しい表現はありえない。自己の外部の秩序への否定は勿論のこと、自己の内部の矛盾を止揚することから新しい秩序が生まれる。書くことによって秩序づけられてきた書的自己の内部に激しい矛盾があらわになり、そのままでは一字も書き続けることができないくらい矛盾が激化したとき、書き続けるために新しい方法が考えだされるのである。むしろ書的自己というよりも人間としての自己といったほうがよいかもしれない。自己と他者、自己と社会、自己と自然との関係における矛盾が現状に対する激しい否定にまで高まったとき、表現は新しくならざるを得ないのである。さらに深いところでは、自己の中の自己との矛盾が古い自己を否定することによって新しい表現を生みだすのである。真の創作者は、全身的に自己の全生命を賭して紙に向かうものである。頭や小手先で書いたりはしないしまたできるものでもない。

作品の鑑賞においても、この作者が真に自己の内部矛盾から、どうしてもこの作品を書かねばならなかったのか、またそうではないのかを透視する力を磨かねば、真物(ほんもの)の芸術に出会うことは、できないであろう。既にできあがって、固定しているかのように思われる、書道史や、書道人に対する権威ある者の評価はすべて、疑い、否定すること。書の見方などというペダンチックな、過信家の言はすべて疑い否定すること。うのみにしてはいけない。我流を恐れてはいけない。我流こそが普遍性への道である。矛盾のないオウム返しは、初歩の初歩だけでよい。


(2002年・会員つうしん第58・59・61号掲載)

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