書の可能性を求めて
- harunokasoilibrary
- 5月14日
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更新日:5月31日
習字の手本のような正しく美しい文字を書いたところで、それだけでは書(芸術)にはならない。それは筆で書いてはあっても、決まりきった筆文字記号に過ぎない。
活字を丁寧に整えて書いてもそれも記号に過ぎず、もちろん書ではない。
言うまでもないことだが、書かれた文字の一本一本の線の中に書き手のこころの姿が融け込んで始めて書になる。
書は文字を書く。
文字には約束ごとがあり、いかに横線が好きだからといって「一」を「三」と書くわけにはいかない。
書は、その約束ごとの範囲の中でしか表現することが出来ない堅苦しいものであるが、しかし、字の形は四方八方に自由に伸び縮み出来るし、線の太細も好きなように変えられる。
書の歴史では、甲骨文字から篆書、隷書を経て、草書、行書、楷書、平仮名と、単純な線から複雑な線への変化がみられる。
このような書の線は東アジアの書の歴史の中にだけある古臭く特殊でローカルな線である。
言うまでもなく、書の線だけが線ではない。
線は今も昔も世界中にある。
書の線でない線を使って漢字や仮名を書いても書といえるであろうか。
文字の線の背後に、こころの姿があるならば、それを書といっても良いのであろうか。画家の難波田龍起やウングワレーの線には、書の線以上の生命感や人間らしい感情や思想の表現がある。
いずれにしても、線にこころの姿を投影することはそう簡単ではない。やはり、書を学んだことのない人には、それはほとんど不可能といっていいだろう。書の線は、それなりの年月をかけて醸成されるものだからである。
書の線を実現することは確かに難しいことであるが、書の線でなくても芸術的で表現力ある線が世界にはたくさんあるというのに、書の線に執着するのは、ぼくが、たまたま二十世紀の日本に生まれ、日本語と書を学ぶ機会があったからに過ぎないのではないかと思う。
そのローカルな書の線を芸術であると言うならば、その線に他の芸術にはない独自性と同時に、全人間のこころに通じる普遍性がなければならない。
ぼくは本当のところ、その線が書であろうがなかろうがどうでも良いと思っている。それに、作品が書であろうが絵であろうが、またその他のものであろうが、ぼくの感性に訴えかけてくるものなら何でも良いのである。
書の線にこだわる自分が鬱陶しい。
最近「自由」と「平和」という言葉を書いた。
書が芸術なら、言葉に訴えるのではなく、言葉では言い表せないあるものを感覚を通して伝えなければならない。
「芸術はつねに人間精神の表現であり、内面世界の発見であり、現実の把握であり、非人間的なものに対する人間のたたかいであるだろう。」
「芸術はつねに一層豊かな人間性を求め、人間存在の一層深い把握にむかうものである。」
「言葉にならぬ深いもの、根源的なもの、人間の奥底にあるものを照らしだすもの、それが芸術である。」 (矢内原伊作『芸術の思想』より)
書は言葉を書くものだから感覚を通して訴えるのは難しい。
ぼくが判読困難に書くのは書の持っている芸術性を前面に出すためである。かりに読めても、その作品の芸術性が劣るわけではないと思うが、しかし、読めないと端から見ようとしない人もいるけれど、読めないほうが芸術としての書の本質を感じ取ってくれる人のほうが多いように思うのだ。
「自由」も「平和」も使い古された言葉で、表現は陳腐になりやすい。
ぼくにとっては、その難しさがかえって好都合であり、また挑戦しがいのある言葉でもあった。
書が現代芸術の域に達するためには、人種や民族や国家や時代を超えた、人間のこころに訴えかける普遍的な芸術言語でなければならない。
「創作は常識や固定観念から自由になり夢(作品)を実体化する作業である。」(安部公房)
「もし、ぼくらの読む本が、頭をガツンと一撃してぼくらを目覚めさせてくれないなら、いったい何のためにぼくらは本を読むのか?・・・本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。」(カフカ『オスカー・ポラックへの手紙』より)
この中の「本」を「芸術」または「書」と置き換えてみるとよい。
「自由」と「平和」の創作は固定観念との戦いであった。
ぼくは自由や平和の意味を書いているのではない。
また、そんなものが書けるわけもない。
ぼくが実現したかったのは、静けさ、悲しみ、澄み切った世界、絶望と希望、生命などであった。書に絵画や彫刻や映画と肩を並べるほどの表現力があるのであろうか。書の表現力の可能性を求めて悪戦苦闘したが、幽かな光も見えてこなかった。
アフリカやアラブでは民主化運動の中で多くの人びとが殺害されながらも、自由や平和の実現を喜びあっている。
その自由や平和を踏みにじってきたアメリカやヨーロッパ先進国や日本では、破廉恥にも、自国を世界で最も自由で平和で民主的な国だと思い込んでいる指導者や市民が日々の享楽を貪っている。
自由や平和を書くということは、とてつもなく難しいことである。
自分の内側だけでなく、世界の隅ずみにまで光をあて、人間の暗闇を見つめなければならない。
これから先、どうなるかは分からないが、書の杖をたよりに、自由の実現に向かって歩けなくなるまで歩いて行こうと思う。
書に可能性がある限り。
(2012年4月・会員つうしん第119号掲載)


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