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書について

harunokasoilibrary
2025年2月19日
読了時間: 6分

更新日:10月22日

 昨年の十月に「学習の仕方」を改定した直後、ある会員さんから「私は凡人ですので退会します。」というお便りがありました。私は真の実力を養う方法について、学習する一人一人にとって現在の時点で私が最良と思える学習の仕方について、やや厳しくのべたのでした。「凡人ですので…」には多少驚きましたが、また、考えるきっかけにもなりました。どんなことでもそうですが、広く世界に目を向けずに狭い井戸の中だけで暮らしていると正しい認識が逆立ちして見えるものです。偏見ほど恐ろしいものはありません。しかし、誤解されてもしかたがない状況の中に私達はいます。恐ろしい退廃文化の中で書は狂騒曲をかなでているのですから。

 断っておかねばならないことは、先に「現在の時点で」と前置きしましたように、私自身が「書とは何か」について、私自身の能力、つまり現時点の書的レベル以上には見えていないということです。しかし私は、なんとかして正しい書の世界に生きたいと願っています。だからこそ再び誤解を覚悟で機会をとらえて皆さんに問いかけつつ、真実の書の道にできうる限り近づきたいと考えています。書を始めた動機がなんであれ、皆さんも考えてみて下さい。

 

 さて、書とは何か、その答は、数千年の書の歴史の中にあるはずです。しかし、今は足元から見ていくことにしましょう。私達のまわりには学校の書写教育や、書道塾、習字教室があります。書の通信教育や競書誌も様々の新聞、雑誌等で毎日のように宣伝しています。私達の日常生活とはほとんど無縁な存在ですが書壇とよばれる書家達の特殊な世界があり、その人達の書道展が大新聞社等の後援で美術館や画廊で開催されています。この書壇を支えているのは、実は、素人の主婦層なのですが、プロの集団のように思われています。その他、作家や著名人、芸能人とか文化人とか呼ばれている人達が書らしきものを発表したりしています。これらを総称して書道界と呼んでいます。書道界もプロからアマチュアまで様々なわけです。

 では、書とは何なのでしょう。書は習字でも書写教育でもありません。ましてや書道展のためにあるわけでも、室内を飾る家具調度品でもありませんし、芸能人のサインのような浅薄なものであるはずもありません。単なる意味を伝達するための記号でもありません。大衆が真実の書の姿を理解しないから、宗教は商売になるとかなんとかとんでもないことを考えて金もうけに走る似非えせ宗教家がはびこるように、書道界にも書をだめにする似非書家がはびこっているのです。書をだめにすることは、実は人間をだめにすることといっても言い過ぎではありません。

(1996年1月 会員つうしん第19号掲載)



 今年の「野のはな書展」で入場者の一人が、ある作品をジィーと見てから「いい書ですねぇ」と作者に語りかけました。つづいて「いい詩が書いてありますねぇ。私、この詩ずいぶん前から好きだったのです。」「本当にいい書ですねぇ。表装も上等だし。」…。その作品は数十字の現代詩でしたが、その人は数分間その作品を見てこの感想を作者に語ったのでした。

 「いい書ですねぇ」という感想の中味には確かに何がしかの書の姿が含まれているかもしれませんが、この人は書というよりも詩の文章を読み、それが好きだから書を見たつもりになっているにすぎません。表装の良し悪しも作品の本質とは無関係でしょう。多くの鑑賞者がこのような見方をしているのではないでしょうか。これでは書を鑑たことにはなりません。このような見方からは「読めない書」または「好きでない詩文」は見ない、また、見ようとしない態度しか生まれてこないでしょう。仮に好きな詩文が書いてあっても、くずし字や変体仮名が使われている作品は読めない書になってしまい、平安時代や中国の漢詩文は見る気もおこらないたいくつな作品になってしまうでしょう。

 多くの人々は、「書」の前に立って何を見ているのでしょうか。書とは、そこにかかれている詩文を読むものだと思っている人にとっては、読めない書は、読みとることのできないおもしろくない書ということになってしまうのでしょう。この固定観念をまず棄てなければ書は見えてきません。たとえば子供達の書き初め作品などを前にしたとき、私達はそこに何という語句が書いてあるかということよりも「元気な字」とか、「力強い」「弱々しい」「のびのびしている」「まじめそう」「丁寧な感じ」など、その書の書きぶりを直感的に感じとるものです。子供達の場合、それはやはり初歩的な書きぶりにはちがいありませんが、それこそが「書」そのものではないでしょうか。何が書かれているかわからないけれどもそこには何か心に響くものがある、魅きつけるものがある。それこそ書の「言葉」であり、「書」という詩文なのです。

この「書の言葉」は技の鍛錬の上にのみ成立するものです。徹底した技の鍛錬の上にのみ深い言葉は宿ります。ここのところを忘れてはいけません。どんなに立派な詩文を書いてみたところで書の言葉が立派でなければ書として人々に感動を与えることはありえません。また書の言葉は、書の歴史の中で創られ継承されてきました。それを学ぶのが書の学習なのです。そして本当に書きたい言葉、書かずにはいられない現代の言葉を書くための書の技、つまり書の言葉の表現技術を創り出すことが学習の目標なのです。書とは、詩文の形を借りた新しい「書」の「詩文」なのです。ここのところも忘れてはいけません。手本や古典を見るときもまったく同じことです。

 また、何千字も書いた作品の前で「これは、普通の筆の3倍も穂の長い、羊毛のクニャクニャする筆で、しかも筆管の一番上をつまむように持って、こんなに小さい字を書かれたそうよ。すごいねぇ。」「一年がかりで、仕上げは三日三晩ほとんど寝ないで書かれたそうよ、すごい気力ねぇ、そうとう高齢なのに」これは書を見ていることになるのでしょうか、そうではありません。書作品そのものを見ないで、作者にまつわる書の周辺の出来事を書の価値と混同して、書を見たつもりになっているにすぎません。作品の大きさや、制作時間や、年齢や用具は、書の本質とは直接結びつくものではありません。私達の前には「書」そのものがあるにもかかわらず、「書」を見ないで作者の苦心談や人柄で目をくらまされて書の言葉がぜんぜん見えなくなったのでは、その人柄の良いところも何の意味もなくなってしまうのではないでしょうか。用具や、人柄や、制作態度が書にぜんぜん無関係というわけではありませんが、「書」そのものがまず立派でなければなりません。書の価値を鑑別する目を私達は常にきたえなければ書から多くの大切な価値あることを学びとることも、その作者の本当の人柄に接することもできませんし、創作することもできません。

良い書、本当の書、真実の書というものは鑑賞者の日常生活や、仕事に

必ず役立つものなのです。それは、良い絵や、文学作品や音楽とまったく

変わりありません。

(1996年9月 会員つうしん第23号掲載)


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