新しさについて
- harunokasoilibrary
- 4月1日
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更新日:6月1日
美しいものは新しいものです。本当に新しいものは美しいものです。そして美しいものは善いものです。美しく新しいものは真実です。新しいものには名前がありません。名前のあるものは全て古いものです。
全ての存在は新しいものです。人も物も全て新しいものです。本当は新しいものです。だから存在するもの全ては美しいものなのです。新しさを本当に感じられたらそれが解(わか)るでしょう。生命(いのち)とは常に新しいものです。だからそれは美しいものです。

いま梅が咲いています。これは昨日私が見た梅ではありません。私の記憶にある昨日の梅
ではありません。昨日の梅はもう存在しません。過去は記憶の中に在るだけです。過去は実在しません。それは実在しない観念にすぎません。にもかかわらず私は全く新しい花を、記憶で、梅という過去の知識で見ています。今そこに在る新しい花を見ていません。花は新しいのに私は古い梅の思い出で見ています。私は新しいこの花を、新しい本当の姿を、生まれたばっかりのこの花を、そこにあるがままのそのものを、感じることが出来るのでしょうか?
記憶は古いものです。それは全て過去のものです。記憶では新しいものは見られません。知識は記憶です。だから知識も過去のものです。知識でも新しいものは見られません。「梅」も「花」も言葉です。言葉は記憶です。だから、言葉は古いものです。言葉では新しいものは見られません。私は「梅」という言葉で梅を見ています。新しい本当の存在を見ていません。
人間は古い言葉を寄せ集めて新しい言葉を造って来ました。毎年新語が話題にもなります。若い人たちは好き勝手に新語を造っています。新語はどんどん生まれています。しかし、それらは全て古い言葉で出来ています。
記憶にある古い言葉を組み立てて新しい言葉を造ったら、新しい世界が見えるでしょうか?
梅という言葉がいつ頃から使われたのか私は知りませんが、人間が初めて梅を見た時、当然、梅にはまだ名前はなかったでしょう。あれこれ経験するなかで梅と他のものとを比較し区別して梅と名づけたのでしょう。経験は記憶であり知識です。経験は全て過去のものです。梅という言葉は過去の経験の上に出来上がったものです。言葉は全て過去の経験ではないでしょうか。だとしたら、言葉は全て古いものです。と言うことは、新語は全て古い世界を表わしているのではないでしょうか?
知識や記憶や言葉では新しい世界を見ることが出来ないとしたら、生き生きとした、本当に新しい世界をどうしたら見ることが出来るのでしょうか?私たちは知識や記憶や言葉なしで世界を見ることが出来るのでしょうか?
科学技術や医療は進歩しています。どんどん新しいものが誕生しています。車もカメラもコンピュータも日進月歩です。物理的な世界は常に新しいように見えます。目まぐるしく発展していると、私たちが実感しているこの世界は、本当に新しくなっているのでしょうか?この世界に生きている人間も機械と同じように新しくなっているのでしょうか?人間の意識や心は新しくなっているのでしょうか?本当に全てのものは新しいのでしょうか?発展進歩は表面だけの単なる変化ではないでしょうか?
過去何千年も前から、もしかしたら何万年も何百万年も前から、私たち人類は現在まで戦争をして来ました。競争をして来ました。ありとあらゆる暴力を認めて来ました。信念を持って来ました。組織を作って来ました。神を作り上げそれを信仰して来ました。つぎつぎと理論をあみ出しそれを信奉して来ました。努力することを美徳として来ました。比較し差別し分類し分析し分割し全てを細かくバラバラに分けて来ました。お金や名誉を最も価値あるものとして来ました。力や才能にあこがれ、それを羨望(せんぼう)して来ました。権力を壊してはまた新たな権力を創って来ました。権威を作りそれを崇拝して来ました。理性を信じて来ました。これら全ては人間の伝統です。伝統は古いものです。古いものは記憶です。そしていまもこの過去の記憶に従ってほとんどの人が生きています。
本当に新しいものを感じとり、新しく生きるためにはどうすればいいのでしょうか?本当に新しく、梅の花のように初々しく新しく生きるにはどうしたらいいのでしょうか?自然のように新しい、本当に新しい人間の社会があるとしたら、それは、競争のない、努力のない、比較のない、権威のない、権力のない、信仰のない、分割のない、組織のない、集団のない、名前のない、お金のない、国家のない、抑圧のない、搾取のない、あらゆる暴力のない社会でしょう。それは全ての伝統や慣習の束縛から自由になった社会ではないでしょうか?伝統の継承からは何も新しいものは生まれないでしょう。全ての伝統が否定され消滅したとき私たちが想像も出来ないような新しい世界が誕生するように感じます。
人間が何もしなくても、本当は、世界の全ては新しいのですが、ほとんどの人間がそのことを感じることが出来ないのです。伝統にがんじがらめになった意識が全てを過去に引き戻そうとしているからではないでしょうか?過去は実在しません。ただ観念の中にあるだけです。実在するものは今だけです。心がそれを見ようとしないのは、心が過去に支配されているからではないでしょうか?経験という古い心で見ようとするからではないでしょうか?言葉は古いものです。その古いもので世界を見ようとする限り新しいものを感じることは決して出来ないのではないでしょうか?
新しいものは、すべて若若しく生き生きとして無垢(むく)です。名前がありません。それは過去の積み重なりの結果ではありますが、過去を引きずってはいません。なぜなら、過去は実在しないからです。過去は心の中にだけしかありません。過去を引きずっているのは人間の心だけです。心がそれに気づかない限り新しいものは決して見えないでしょう。
おそらく、新しい世界は、慈悲深く、思いやりのある、愛に溢(あふ)れた世界でしょう。人間はこのような世界をまだ一度も見たことがありません。それは、実現不可能な世界なのかもしれません。いや、実現すると言うよりも既にそこに在る新しい世界に気づけばいいのかも知れません。
(2005年2月・会員つうしん第76号掲載)

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