手紙─母へ─
- harunokasoilibrary
- 3月20日
- 読了時間: 5分
更新日:6月1日
拝啓 秋も深まって参りました。家の前の公園のケヤキやサクラは、早くも色を失いつつあります。如何お過ごしでしょうか。
祖母も鬼籍に入り、大往生だったとはいえ、しみじみとこの世の無常をお感じのことでしょう。人は、なんのために生まれてきたのか?というぼくの問に、あなたは少し考えて、「子孫を育てるため」とたいへん素樸な答をなさいました。これは、他の生命も同じようです。それにしましても会葬した青年や子ども達の元気だったこと。
敬具
冠省 この頃、朝、薄明りの床のなかで、夢うつつのうちに、よく浮かび上がる想念が御座います。それは、ぼくの周囲の人たちが、すべて消えてしまって、この世界にたった一人、ぼくは残されるのではないかということです。その恐怖のあまり悲鳴さえ上げるときがあるのです。そして朦朧とした意識のなかで、ぼくもまた沈黙の中に吸い込まれて、たった一人になって頼る人も無く立っている小さな息子の可哀相な姿が浮かんでくるのです。
日が差してくるころには、このような半意識の状態は雲散してしまいます。くれぐれもご自愛ください。
草々
前略 絵のモデルになって下さって有難うございました。何十年ぶりでしょう。顔の襞がずいぶん複雑になりましたねえ。あなたの顔の一本の産毛や細かな凹凸を凝視(みつ)めて、紙に定着させてゆくことは、ぼくを心安らかな気持ちにさせてくれます。四方山話をしながら、ぼくの手の先を通じて白紙に浮上してくる、あなたの形を慥(たし)かめるこの一時は、ほんとうに充実した生のような気が致します。
不一(ふいつ)
略啓 ぼくは、このように思う時があります。
「人の真実のつながりは、母と子のつながり以外にはないのではないか」と。子を思う母以上の愛が、この世に在るのでしょうか。子を思わない母も在るようですが、そのような親は論外です。ぼくは、折に触れ、あなたのことを想うとき、よく死せるキリストを抱く聖母のイコンを想い浮かべます。ピエタの像を。これ以上の悲しみが在るでしょうか。イエスは自分の仕事を成就しなければならなかったのです。聖母の悲嘆(グリーフ)は、一粒の種子(たね)の死が生命の再生につながることが分かっていても決して癒えることはないのでしょうか。
不尽(ふじん)
前省 奈落の底をひとりさまよい、底無し沼にはまり込んだぼくは、もう一息もできなくなる寸前、差し伸べられた一本の細いワラを掴んで、沼から這い上がったのでした。その細いワラを差し出したのは、あなたでした。ぼくは再び力を取り戻して、新しい世界に辿り着いたのでした。
不悉(ふしつ)
略省 あなたの描いた草花の絵を観ていますと、ありのままのあなたがそこに在るように感じます。自然の幽かな声に耳をすますように草花の細部をこよなく愛するあなたの眼は、素樸ではあるけれど、そこにこそ人として最も大切なものが在るように思います。小さきものを凝視(みつ)めるその眼差しに、宇宙の神秘に愕いている人間の優しさ、美しさのオリジンを感じます。
不二(ふじ)
謹啓 時折り吹く透き通った冷たい風が、収穫を急ぐ農民のように、再生の準備を始めています。自然の摂理とは申せ、悲しい別れの季節です。沈黙は、もうそこまでやって来ています。あなたにも、ぼくにも、あとどのくらいの命の木の葉が残されているのでしょう。命は、尻尾を咬む蛇のように死と再生をくり返すという、四国の伝承を大江健三郎さんの著書で知りました。非科学的な言い伝えですが、人びとは、このようなことを夢想して、死の恐怖から救われようと願ったのでしょう。私たちは、科学とテクノロジーの時代に生きています。しかし、いまだ死と測りあえるほどの何ものも作り出してはいません。植物のように、じたばたせずに生き死にすることは、まだ人間にはできていません。だからといって、人間とはそのように情け無いものだと決め付けるつもりは、ぼくにはありません。これからも武満徹と同じように、沈黙と測りあえる書を探し求めて行くつもりです。
大江健三郎さんの著者の中に、詩人R・S・トーマスのことばが引用されています。
『われわれは人類の歴史ではじめてその絶滅について確かに熟考することをしているのです。うぬぼれへの罰としてであれ、人類自身の欲望と強情さの結果としてであれ、しかし、最後の時においてであっても、セナンクゥールのあのすばらしい言葉があります。「人間は所詮滅びるものかも知れず、残されるものは虚無だけかもしれない。しかし抵抗しながら滅びようではないか。そして、そうなるのは正しいことではない、ということにしよう。」たとえ、この惑星の最後の日であれ、宇宙を見はるかしながら愛と美についてその母国語で語る人間というものを考えることが、私は好きです。』
これを引用して後、大江さんは、「そういう人間こそが、どういう苦しい時代であれ、いちばんいい人間じゃないだろうか、上等な人間じゃないだろうかと考える。そして、自分に残っている人生をそういうふうに過ごしたいと思う」と、書かれていられます。ぼくも、そのように生きようと思います。
寒くなって参りました。御自愛のほど心よりお祈り申し上げます。
謹白
2002年11月
春野かそい
母上様
(2002年11月・会員つうしん第63号掲載)


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