宇宙的存在
- harunokasoilibrary
- 5月18日
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更新日:5月31日
僕らは、インディオのむくろの上に高層ビルを建て、倒壊に怯えながら、毎日をやり過ごしているのだ。ビルの名前は近代文明という。
日露戦争での日本の勝利は、白人に対する有色人種の、歴史上はじめての勝利であった。それは世界の多くの有色人種に自信と勇気を与えたという。
孫文は「日本の勝利は全アジアに影響をおよぼし、全アジア人は非常に歓喜し、きわめて大きな希望を抱くに至り、大国の圧政に苦しむ諸民族に民族独立の覚醒を与え、ナショナリズムを急速に高めた」と述べている。1905年に彼は、スエズ運河で、エジプト人から「お前は日本人か」ときかれ、多くのアラブ人が日本の勝利を喜んでいたことを伝えている。
インドの初代首相のネルーは「アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国に大きな影響を与えた。・・・ナショナリズムは急速に東方諸国にひろがり、『アジア人のアジア』の叫びが起こった。日本の勝利は、アジアにとって偉大な救いであった」と書いた。
アフリカ開放の父といわれたウィリアム・デ・ポイスは「有色人種が先天的に劣っているという誤解を日本が打破してくれた」と日本を讃えた。
ガンジーは1942年、中国を侵略しインド国境に迫った日本軍に対し、戦争の停止を求めた公開状のなかで、日露戦争を思い出して「私は南アフリカで、あなたがたがロシアの武力に対してかがやかしい勝利をおさめたことを知って、感動に身ぶるいしました」と書いた。
非暴力のガンジーでさえ、暴力による日本の勝利を喜んだのである。
当時、日本は、白人に支配された民族にとって、救世主のように輝いてみえたのかもしれない。それほど白人の支配は世界を窒息させていた。
要領のいい日本は、アヘン戦争、アロー戦争、太平天国の乱といった動乱のなかで欧米列強の植民地と化していった中国やアジア諸国の悲惨と無力さをみて、いちはやく明治維新をなしとげ、欧米的な近代国家に変貌し、欧米列強に肩を並べたのである。
ただそれだけの事なのだが、日本がアジアの先頭に立って模倣した近代国家体制は、つぎつぎに植民地諸国に伝染し、20世紀は、侵略者に対する有色人種の、民族独立と欧米化の歴史であることは間違いない。
白人の支配とは、言い方をかえれば、近代文明による前近代文明の支配のことである。人類のなかで白人が、たまたま、最初に近代化した。
近代文明とは、イギリスで1750年ころ興った産業革命文明のことであるが、それは、さらに数百年さかのぼったルネサンスに始まると思われる。
15世紀末、欧州の辺境国であったポルトガル、スペインはアフリカと南北アメリカ、オセアニアそしてアジアを侵略した。やや遅れてオランダ、イギリス、フランスがそれに続いた。スペインはカリブの先住民のほとんどを虐殺し、インカ帝国、マヤ帝国、アステカ帝国の人口の九割以上を虐殺し、インディオの文明を破壊し、キリスト教を強制し、金銀財宝を奪い、インディオの女性を強姦するなど暴虐の限りを尽くした。
各地の先住民への蛮行は、スペインだけではなく欧州のすべてのキリスト教国によって行なわれた。これらの暴力によって略奪し、たくわえた莫大な富で、白人は産業革命を起こし、つづいてフランス革命からロシア社会主義革命までの政治革命をやりとげた。その後、欧米の近代主義は世界を席巻して今日に至っている。
しかし、これは、白人だけが野蛮な人種である、ということではないだろう。近代以前にも、アジア人やアフリカ人の間で、数限りない蛮行があったではないか。中国の歴史は権力争奪の殺人の歴史である。縄文人は新しく入ってきた弥生人によって虐殺されたに違いない。人間による暴力は近代文明や白人だけのものではないが、しかし、事態はそんなに優しくはない。
近代哲学の父と称されるフランス人のデカルトは、1637年に出版した『方法序説』で「我思う、故に我あり」と述べ、「近代的自我」を発見したとされる。これは世界を精神と物質の二つに分ける考え方で、生命のなかで、唯一、自我(理性)をもつと考えられた人間を、生命の頂点に位するものと考え、自然を人間に敵対する対象とし、それを認識して、人間のために操作し役立てようとする科学主義(科学技術主義)、合理主義の基礎的理論となった。
人間の頭脳(理性)によって自然を征服し、人間に役立つように自然を利用するといった人間中心主義の思想は、キリスト教の教義と一体となって、奴隷売買と植民地主義を正当化し、産業革命やフランス革命を導き、進化論やマルクスの資本論や社会主義国家を生み出し、相対論、量子論を経て、素粒子論、ビッグバン宇宙論に至り、数学を応用してコンピュータをつくり、遺伝子を操作して人工生物を製造し、原子をいじくって核爆弾と原発という人工放射能をつくりだし、ips細胞に虚しい夢を見、この近代科学の末裔が世界を救ってくれる、と未練たらしくすがりついているのが現代の人類なのではないだろうか。
この近代科学主義は、テクノクラートという差別集団を生み、技術とエリートが支配する社会をつくり出し、利便さと引きかえに環境を破壊した。
人類は破局に向かって一直線に進んでいるのかもしれない。
人間の理性(知性)によっては自然のすべてを理解することはできないだろう。自然を利用しようと考えるより、自然を畏敬し、自然に従って、その中に合流し、自然の一部となって生きるのが、生命には最も自然なことではないだろうか。原子力の発見ではなく、それが人間の英知というものだ。

それもそうだが、多くの人間には国や仕事があり、家族や夫婦や子どもや友人がいて、それらとの関係が、最も大事な人間の生活ではないか、とあなたは思うかもしれないが、人間にとって、もっと本質的なことは、人間は宇宙的存在であり、自然の一部だということだ。岩に座って、独り海をながめたときの、何ともいえない幸福感と豊かな気分を思い出してみたら良い。そこには空と海と岩と風と光と無数の生命の香りがあるだけだ。人間は社会的存在である前に無限時空に抱かれた無名の存在なのだ。
近代的自我は近代科学を生み出しただけでなく、「かけがえのない私」という個性主義をも生み出した。近代以降の、ほとんどの文学や芸術が、「私の世界」を最高のものとして表現している。どこまで行っても、私・私・私である。これらの全てが、僕には芸術とは思えない。これらの作品が芸術ならば、僕にとって、芸術は不要のものである。僕は自分を表現したいなどとは思わない。表現活動を通して、変身し、死や恐怖といった不安から自分を救いたいだけである。自分を救えれば、ほかの生命も救えるに違いない。
(2013年4月・会員つうしん第125号掲載)

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