夢想(第7回野のはな書展のもう一つの感想)
- harunokasoilibrary
- 3月20日
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更新日:6月1日
ぼくは学習会で、全き人間の一生とは無に始まり、長い有を経て、再び無に至る過程であるとやや大ざっぱに語った。始まりの無は、無心な幼児の時代のことである。自然に咲く花のように、醜い影ひとつない美の世界である。なぜ、知識も技術もなきに等しい幼児の作品が、私達を驚かし、惹き付けるのか。そして、私達がほとんど忘れている、原初の生命力を覚醒し、私達の心を活性化するのはどんな力によるのか。私達は深く考えねばならないと思う。しかしこの時代は、数年もたたないうちに、夢のように深海の闇に沈んでいく。キラキラとした幸福な時は短いものだ。いつのまにか、気付かぬうちに、花は散り、季節は移る、それなりの歓びを伴いながら。人間は、長い有の時代、おとなへの道と、おとなとしての経験と知識の時代へ到る。この時代は、美醜混交の時代である。生物としての卑しい性(さが)と、小賢しい知性の時代。私達は、満たされない心のままに、もがき、苦しみ、ごまかし、楽しみながら、あてもなく果てしない光の海をさまよい泳ぐ。美よりも、地平の見えない醜の時代といってもよい。私達は、この棘だらけの道を歩いていくしかないのだ。
来場者の多くが誉めことばを残していったが、それらのことばは、ぼくには空虚(うつろ)ろに響く。端的に言えば噓である。美しくないものを美しいと言っているのである。もちろん心から感動し、心底美しいと感じ、本当に賞賛している人もいるだろうが、しかしそんなことばに一喜一憂しているようでは底が知れている。ぼくが観た限りでは、来場者も出品者も誰一人として本心から感動している人はいなかった。私達はいったい何をしているのだろうか。
感動するというのはこんなものではない。美しいとはこんなものではない。努力するとはこんなものではない。書とは、芸術とはこんなものではない。心底賞めるとはこんなものではない。創作とはこんなものではない。表現するとはこんなものではない。臨書とはこんなものではない。書展とはこんなものではないのだ。
いささか言い過ぎたようだ。
有の時代は、醜く果てしなくつづくように思える。辛い。しかしそれが生きるということではないか。美しい美しいと嘘をついて自己を肯定ばかりすることは死ぬことに等しい。澱んで、腐敗していくのである。生きるということは、自己否定を限りなく、つづけていくことだとぼくは思う。作品を書くということは、限りなく今日の自分を否定しつづけることなのである。それが生きるということだ。命があるということだとぼくは思っている。否定の否定のそのあげくに真の無の時代に到るのではないだろうか。真の無の時代は美醜を統合した水のようなものになるのだ。これはぼくの夢想である。
(第7回野のはな書展の感想文集掲載文)


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