初心と傲慢
- harunokasoilibrary
- 4月26日
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更新日:5月31日
空海であろうが世阿弥であろうが権威ある者に頭をさげる気は、私にはさらさらない。空海は万能の天才であるとか、世阿弥は能の大成者であるとか、そんなことは私にはどうでもよい事だ。空海が超能力者だとしても、世阿弥や利休の思想が現代まで引き継がれ、かれらが大きな団体や組織の教祖さんとして崇め奉られていようとも、私の喜びや悲しみに微塵(みじん)の関わりもない。あえて、関わりがあるとするなら、私と同じ人間の形をしていながら、権威ある者の衣装で身を飾った組織の長とその追従者たちが私と同じ空気を吸って生きている人間とはとても思えないその哀しみぐらいである。くそ面白くもない能か能楽か知らないが、わけしり顔で感動したようなことを言う教養あるやからにも、ムナクソが悪くなる。
現代までのいかなる権威者もまたその崇拝者も人類の不幸を解決することは出来なかったし権威者の権威ある思想をいただく組織も、また個人も幻想をまき散らすだけで人類の問題を根本的に解決することは出来なかった。それどころか、かれらは自己の思想に固執(こしつ)することで世界に争いの種をまいてきただけではないか。これが今日(きょう)までの人類の歴史である。
私は自分を棚に上げて話しているが、私は権威者でないことは言うまでもない。天のひとひねりで消えてなくなる蟻巻(ありまき)ほどにも役に立たない孤立した人間であるが、孤立しているからまた自由でもある。孤立していると言っても、私は少数のこころ優しい人達に助けられて生きてきたし、流行(はやり)の言葉で言えば、「おかげさんで」今も生きている。だからといって、こころの自由を支払う気はない。私は一人である。一人だからこそ自由にものが言えるのだ。
経済的自由というものが本当にあるのなら、それは、集団の力で、助け合って、持ちつ持たれつ、言い換えれば、集団の一員になってはじめて得られるのかもしれないが、そこには本当の意味での自由はないであろう。経済的自由とこころの自由は両立しえないのである。こころの自由は何ものにも依存しないところにしか存在しないのだ。今日(きょう)までの人類の歴史上でこころの自由を得たのは個人としての釈迦とイエスぐらいであろうか。かれらは国家とは別の次元で生きていたと私は思う。かれらは有名人だから名をあげたが、多くの無名自由人がいたにちがいない。人類の歴史を国家の歴史のようにいう人がいるが、国家に依存するところに、こころの自由はない。人間は、国家や民族や家族につながっているといっても、人は一人で生まれ一人で死んでいくのである。誰もあなたの代わりに生まれ死ぬことは出来ないのだ。何ものにもつながらない、天上天下孤独のたった一人の自分、それがあるがままの人間の現実なのではないだろうか。
世阿弥晩年の著『花鏡(かきょう)』の最後の段に「初心不可忘(しょしんわするべからず)」についての説明がある。
初心不可忘
(略)是非の初心不可忘。時々(ときとき)の初心不可忘。老後の初心不可忘。此三(このみつ)、能々(よくよく)口伝可為(くでんなすべし)。(略)「前々(ぜんぜん)の非を知るを、後々(ごご)の是(ぜ)とす」といへり。(略)「初心を忘るれば初心へ返る理(ことわり)を、よくよく工夫すべし。初心を忘れずは、後心(ごしん)は正しかるべし。後心正しくは、上がるところの態(わざ)は下がることあるべからず。
「是非の初心を忘るべからず」とは、修行を始めた頃の初心であるが、「現在の芸が上達するか、退歩するかを決める基準としての初心を忘れてはいけない」の意味でもある。
初心とは「階梯ごとに必ず経験する芸の未熟さ」のことであり、芸を始めた頃のういういしさやひたむきさの事ではない。未熟で下手ということだ。「前々(ぜんぜん)の非を知るを、後々(ごご)の是(ぜ)とす」以下は、「これまでの失敗を知ることが、これからの成功の基になる。そして、初心を忘れると後心を忘れ、後心を忘れると未熟な初心へ返る。初心を忘れなければ、後心は正しい。後心が正しければ、一度上達した芸は退歩することはない。
「時々(ときとき)の初心を忘るべからず」とは、若年から壮年さらに老年に至るまで、その時分時分特有の芸がある。その時期時期の身体の条件に叶った芸態を手がけてきたことを時々(じじ)の初心という。その時々(ときどき)に学んできたすべてのわざを忘れずに持っているということを時々(じじ)の初心を忘れぬというのである。芸の幅の広い役者になるためには、時々(ときとき)の初心を忘れてはいけない。
「老後の初心を忘るべからず」とは、老後、はじめての芸にいどむみずみずしい心構えのことである。命には終わりがあるが、芸には終わりがない。過去に習った芸を思い出して今後の芸のために見直して老後の芸態を工夫することは、老後の初心である。
若年から老後までの一生涯、初心を忘れなければ、一向に衰えを見せない芸位を維持して晩年を飾り、最後まで退歩することがない。このような芸位に至ったものを「真の花」というのである。「真の花」に至るまでの花は「時分の花」にすぎない。・・・・・・

世阿弥の著書を読んでいると、芸に生涯をかけた一人の真摯な人間の真心しか伝わってこない。このような美しい人間を権威者の名のもとに葬り去ろうとしている私は何と救いがたい傲慢な人間であろうか。
初心不可忘!
(2008年4月・会員つうしん第95号掲載)

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