人間への信頼―安全保障の根拠―
- harunokasoilibrary
- 2月22日
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更新日:6月1日
ベランダの鉢植えの梅の花が散って、可愛らしい梅の実が、萼(がく)の間から覗いている。葉はまだ蕾(つぼみ)である。暖かい春の陽(ひ)につつまれて、あちこちの、草木の芽がふくらんでいる。新しい春だ。少し暖かくなって、昨日まで、頼りなげに、フラフラと浮かんでいた白いメダカが、甕(かめ)の暗闇の中に消えた。命は生れ死に、また生まれ死ぬ。春の宵(よい)、人びとは、飲み唄い愛し合う。歓びと悲しみに抱かれて。天下太平の日本。
泣き叫ぶ子供たち、逃げ遅れた年寄りや病人、何の罪もない無辜(むこ)の民の上に、正義の爆弾が降りそそぐ。何千回もの空爆。自由と民主主義の旗を振る殺し屋たち。テロリストになるしかないイスラムの青年たちよ、残虐な処刑はやめよ。それでは、平和賞のバッチを胸に、世界の保安官よろしく、人殺しをする殺人鬼とかわらないではないか。
戦争に反対するのが人間の常識のように思っている人も多いようだが、それは嘘である。当然のように、世界の人びとが戦争に反対するようになったのは70年ほど前からのようだ。それまで、人類史のほぼ全ての時代、人びとは、正義の戦争を認めていた。戦争は嫌(いや)でも、それを必要悪として認めてもいた。戦争は絶対悪であるということが常識になったのは、核爆弾が誕生し、核戦争によって人類が滅亡する可能性がでてきたこと、そして戦争をしてもほとんど利益がないことが分かった時からである。
「核兵器出現以前においては、戦争を一般的に否定するという考え方は、実は絶対少数意見であった。(中略)場合によっては、戦争を是認しなければならないというのが絶対多数の意見であった。」(湯川秀樹「核時代の平和思想」1968年より)
戦争を悪として否定する非戦思想は、第一次世界大戦後に生まれたと思われるが、しかし、その反戦主義・非暴力主義・無抵抗主義は大多数の人びとからは理解されなかった。核兵器が出現し、人類を何十回も全滅しうるほどになって、はじめて、人類は核戦争だけでなく、化学、生物兵器などの大量破壊兵器や通常兵器を使用する戦争そのものを、全面的に否定するようになったのである。しかし、正義の戦争は今も続いている。対戦国のそれぞれが、それぞれの信念を掲げ、聖戦と呼ぶなど、戦争を美化し、正当化している。
人間とは、なんと愚かな生物(いきもの)なのであろうか。昔から、何一つ、人間の本質は変わっていないかのようである。
「戦争の否定というのは、今日では、こういう種類の戦争は一切、認めないという考え方である。そして国際紛争は戦争に訴えず、平和的な方法で解決せよという主張である。日本国憲法の第九条は、まさにそれを言っており、そのために自ら、戦争を放棄したのである。」(湯川秀樹「核時代の平和思想」1968年より)
50年も前に、湯川博士は、このように述べていたのであるが、今、中近東では、第三次世界大戦が起こりかねない状況になってきている。
1959年11月20日、国連総会で全加盟国が「全面完全軍縮に関する八二ヵ国決議」を提案し、全会一致で採択された。これは、核兵器と通常兵器を完全に撤廃するという決意を、全ての国連加盟国が表明したものであった。その後、何度も、国連で軍縮について総会がもたれたが、今もなお(2014年現在)、世界には1万6千発以上の核兵器が配備されているという。大国は、威風堂々と軍事パレードをし、どこか後ろめたそうな面持ちの、幼稚な指導者たちが閲兵している。人間は、このような陳腐な茶番をいつまで続けるのであろうか。
私は書の作品を作ろうとしている。書は芸術である。芸術作品はすぐには役に立たないものである。何十年何百年の後に真価を発揮するものなのだ。今にも世界大戦が起こるかもしれない時に、悠長なことと思われるかもしれないが、芸術は、時の政治や商売に役立つために作られるものではない。もっと本源的なものなのだ、と私は思う。
しかし、私は、今の世界の情勢を、手をこまねいて、沈思黙考しているわけにはいかないのである。とはいっても、今の私にできる事は、書の制作以外にはないのだが、しかし、書の制作は政治的でもあり、作品によっては、人びとを励まし、活性化し、人間性の進化をうながすことが出来るかも知れない。中東やアフリカの難民たちを援けるために、戦場で役立つ人は幸いである。私は、この人たちを含めた、人間性のモニュメントを創りたいと強く思う。今、書でそれをやろうと考えている。
「戦争を放棄した日本は、自国の安全の保障をどこに求めたでありましょうか。この憲法の前文の中には、
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(中略)
と書かれています。日本国民は自ら戦争を放棄すると同時に、他の諸国民が政治道徳の法則を守ることを期待し、それによって自国の安全を保持し得ると信じたのであります。この信念が現実から遊離したものにならないためには、軍備と交戦権を持つ国々の集りとしての人類社会が、軍備を捨て戦争を放棄し、その代り世界法を忠実に守る国々の集りとしての人類社会へと変ってゆくことを必要としていたのであります。(中略)『世界連邦は実現されるべきである』という要望と、『それは実現されるであろう』という期待とを背景として、日本国憲法は成立していると考えざるを得ないのであります。」(湯川秀樹「世界連邦への道」1963年より)
ホモサピエンスである我々人間は、戦争を好む生物なのかもしれないが、日本国憲法第九条を生み、戦争を放棄し、一切の暴力のない平和な世界を希求する、高い理想を掲げる生物でもあるのだ。
「平和は『世界法』によって維持されるべきであり、国際間の紛争は『世界裁判所』によって裁かれ、調停されねばなりません。(中略)一九四八年、(中略)アインシュタイン博士は、私と私の妻の手をとって言ったのでした。『核兵器全廃のために、私たちは全力をあげよう。そしてその方法は、世界が一つになること、一つの連邦国家となることしかない』と。(中略)『世界連邦』構想は、けっして夢ではありません。(中略)ひとりひとりが生命を大切にし、賢くあり、そして希望を失うことなく、それぞれの立場で努力していきましょう。」(湯川秀樹「平和への願い」1981年より)
私は、アインシュタイン博士や湯川秀樹博士たちの願いを受け継ぎ、戦争のない非暴力の世界を実現するために努力したいと強く思う。
「明日、世界が終るとしても、私はリンゴの木を植える」と言った賢人のように、私も小さな生命の樹(作品)を植えようと思う。
(2015年4月・会員つうしん第137号掲載)


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