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中国を歩いて

  • harunokasoilibrary
  • 5月12日
  • 読了時間: 7分

更新日:5月31日

10月末から11月初めにかけて中国の華北と華中を旅した。

野のはな書道会創立20周年記念として有志が企画してくれた旅であった。

初めの4日間は六人の仲間と共に北京を歩いた。

後半の9日ほどは仲間たちと別れ、一人で、山東省と江蘇省のいくつかの都市とその周辺を観てまわった。通過した都市は、北京(ぺきん)、濰坊(いぼう)、莱州(らいしゅう)、済南(さいなん)、泰山(たいざん)、曲阜(きょくふ)、南京(なんきん)、揚州(ようしゅう)、蘇州(そしゅう)、上海(しゃんはい)である。

何年間か「もろもろ塾」で中国の書の歴史を核にして中国について学んできたが、学び方が足りないのか、ぼくの中で、中国やそこに住む人たちに対する違和感、嫌悪感はつのるばかりで、その感情は、中国文明の象徴である漢字への嫌悪を越えてその否定にまで到ろうとしていた。

出発前はあまり気乗りしなかったものの、最後にもう一度、中国とそこに住む人たちについて、そして漢字や中国の書について、中国を歩きながら自分の肌で感じてみようと決意し旅立つことにしたのであった。

今年は辛亥革命(しんがいかくめい)100周年記念の年にあたり、台北と北京で記念展覧会が開催され、北京では故宮博物院で「蘭亭序」に関する史上最大規模の「蘭亭特展」が開かれていた。

北京では、本でしか観たことのない蘭亭序の実物をほぼすべて観ることができるし、天安門広場や紫禁城も歩ける。

北京故宮博物院北門
北京故宮博物院北門

山東省では鄭道昭の磨崖のほとんどを、江蘇省の揚州では揚州八怪、蘇州では沈周や文徴明ら呉派の書画を観ることができると思うとこころがはやった。

蘭亭序は名状しがたい気品にあふれるものであった。

本物の持つ香りというものは、やはり印刷では解らない。

来て良かったと思った。

車のけたたましいクラクションの音。スモッグに覆われ、どんよりと眠ったような太陽。喧騒の中、何かに取り付かれたように、大きくだだっ広い都市を歩く人びと。

北京は人だらけ物だらけであった。

北京市の郊外の居庸関長城の六体石刻は、650年余の時を刻んで静かに語りかけていたが、耳を傾ける人はあまりいなかった。

雲峰山頂上より
雲峰山頂上より

たくましく頼りがいのある元気な仲間たちと別れて、一人高速鉄道で濰坊へ向かい、翌朝バスで莱州に向かい、莱州駅前でタクシーを拾い雲峰山、太基山、天柱山の順に鄭道昭の磨崖のある丘のような小さな山やまを巡った。

雲峰山は清らかであった。

柔らかな風と清らかな光に包まれて、岩に彫られた鄭道昭の字に触れていると、自分がなぜこんな異郷の地に、今、一人で立っているのか、鄭道昭のナイーブな書が、ぼくをこんな辺鄙な、寂しいくらいに澄んだ中国の僻地に呼び寄せた意味は何なのだろうか、ほんとうに自分の意思でここに立っているのだろうか、と、様ざまな思いの中、時空を越えたような、今までに一度も見たことのない風景のなかで、ぼくは立ち去りがたい不思議な幸福感につつまれていた。

翌日はバスで済南に向かい巨大な山東省博物館を見学し山東石刻芸術博物館の庭で高貞碑を観て、泰安市に向かい、次の日朝早くから泰山に登った。

泰山刻石は岱廟に移され、頂上近くには紀泰山銘がある。

岱廟から紅門を経て中天門から南天門へと7500段弱の階段を4時間ほどで登った。

それから、ぼくは曲阜に行く列車に乗り遅れないように急いで山の階段を下った。

前日泰山を下りるころからすでにおかしかったが、翌日、曲阜の孔廟、孔府などで石碑を観る頃には左脚を引きずらないと歩けないようになっていた。

なんとか曲阜から南京行きの高速鉄道には乗ることができたが、左脚の痛みはさらにひどくなってきていた。

見学予定の南京博物館は休館中だったのでしかたなく次の予定地の揚州へ向かい、歩くのは大変であったが、まだ京杭大運河を見に行く元気は残っていた。

翌朝早く巨大な双博館に揚州八怪展を観に行ったが、揚州八怪室は閉館中であった。脚だけでなく心まで萎えそうになったけれど、仕方がない。

歩くのが亀さんかカタツムリほどにのろいから、駅でもどこでも早め早めに行動しないと予定の場所に行き着くことができない。

次の予定地の蘇州へ早めに着いて、やっとのおもいでホテルにたどり着いた頃、まだ痛みが軽かった右足のアキレス腱あたりに違和感を覚えてゾーとした。

右足が使えなくなったら万事休すである。

なんとか必死で歩いて翌朝一番に蘇州博物館の前で開館時間を待っていたが様子がおかしい。なんだ!月曜は休館だと!

ガイドブックには無休と書いてあったではないか。

何もかも嫌になった!呪われている!ふざけるな!バカヤロウ!

頭が変になりそうだったが、蘇州にはもう一泊することになっていたから、もう一度、明日一番に来て一時間でも一点でも呉派の書画を観ることに予定を変更し、明日の十二時前後の上海行き鉄道の切符を買いに蘇州駅に向かった。

幸いに12時1分発の上海行きの切符を買うことができた。

翌朝一番に蘇州博物館で呉派の書画を観て、もう左脚も右足もほとんど歩けなくなってきていたが、いそいで駅に向かった。

とにかく帰国しなければならないので、どうしてもしなければならないことだけにしぼりやりとげていこうと、まずは蘇州駅に着けたから次は、上海駅に着いて、地下鉄に乗り換え、世話になった「てふてふの会」のみんなに筆のおみやげを買うために朶雲軒による、次にまた地下鉄に乗って予定していた上海博物館と美術館はあきらめ、竜陽路駅から上海トランスラピッドで空港へ向かえば何とか間に合うだろうと頭の中であれこれ予定を縮小して考えていた。

ところが、考えられないことではなかったが、最悪なことが起こったのである。

ぼくの乗る列車だけがどうしたことか、3時間以上遅れることになったのだ。

1時間、2時間と遅れるにしたがって、おみやげを買うことをあきらめ、空港に着くことさえ危なくなってきた。

ぼくは誰にも相談することもできず、心の中で、切符を変更できないか、誰か空港まで運んでいってくれないか、こうなったら強引に他の列車に飛び乗るか、こんな脚ではそれは無理だろう、あれこれと思いをめぐらしていた。

その時、奇跡が起こったのだ。

紙数がなくなってきたので詳しくは書けないが、ぼくの後ろに背中合わせに座っていた2人のおじさんが、何やかやと英語と中国語まじりで話しかけてきてうるさいなあと思っていた身なりもあまり上等そうでない変なおじさん2人が、走りまわって温かいスープを買ってきてくれたり、駅員さんと交渉して切符を交換してくれたり、ぼくのために近道で列車に乗れるようにしてくれたり、脇を抱えて上海までどころか、地下鉄から上海トランスラピッドの乗降口までほとんど迷わず一直線に連れて行ってくれたのである。

ぼくはぎりぎり飛行機に間に合って無事京都に帰ってこられたのであるが、関空ではもう一歩も歩けないくらいになっていて、タクシーまで車椅子で運んでもらったのである。帰国後病院で、左脛骨上部の疲労骨折であると判った。

おじさんたちの名前は上海に家がある徐さんと何さんである。

今でも彼らのことを思うたびに涙がこぼれてくる。

彼らは不思議な風貌であった。

ぼくは今では、彼らは寒山拾得の化身だったと確信している。

中国では優しく親切な人びとに多く出会ったけれど、それは常識の範囲を超えるものではなく、ぼくの中国人に対する違和感を払拭するほどのものではなかったが、しかし、最後の最後に2人のおじさんが現れて、ぼくのこころから中国や中国に住む人びとに対する偏見をきれいさっぱりと洗い流してくれ、中国や中国人だけでなく、世界中の国や人びとが大好きになったのである。

かずかずの想定外の困難や失敗は2人の不思議な中国人に出会うために用意されていたのかもしれない。

こんな素晴しい旅はぼくの生涯には二度とないであろう。

ぼくは、ますます深く広く漢字や中国の文化について学んでゆこうと強く思う。

今、帰国して、自分が偏見の塊であったことに気づき、その偏見はどこから来たのか、改めて考えてみたいと思っている。

(2011年11月・会員つうしん第117号掲載)

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