上善若水(じょうぜんはみずのごとし)
- harunokasoilibrary
- 3月20日
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更新日:6月1日
まだ私の髪が今よりも黒く、多かった頃、柔和な微笑の栗里(小林綾)さんが闇の中に静かに現われた。その日から十年余の月日がたっただろうか。
栗里さんは私の書いた字が気に入られて私の教室の門を叩かれた。だから私は栗里さんにとって字の先生であるが、それは世間での形にすぎない。ほんとうは、栗里さんが私の先生である。長いようで短い月日の中で多くのことを栗里さんから教わった。そのいちいちをここで述べるゆとりはないけれど、だいたいにおいて、次のように言うことができるように思う。
私の考えたこと、それも思い込みの強すぎる考えに対していつも栗里さんは反論され、それに対して愚かな私は自己の無知を棚に上げて充分練り上げてもいない自説に執着した。このようなやりとりは教室のたびに繰り返された。心安らかなはずの書道の教場は、思想闘争(それは静かで慈しみあふれた議論だが)の修羅場と化すのであった。
どうしてこのような自明なことがこの人にはすっと飲み込めないのだろうかとか、年齢(とし)(私は栗里さんの頭脳に衰えを感じたことは一度もないが栗里さんは若い頃が懐かしいようだ)の差によるギャップなのだろうか、この人は思い込みが強すぎるのではないかなどといろいろ考え悩んだものである。
しかし、いつも私は後になって栗里さんが何気なく言われた言葉のほんとうの意味を深く感じ、自己の浅墓(あさはか)さを反省した。そして落とし穴に落ちずにすんだことに感謝し、何一つ解っていないことに気付き、このような心すぐれた人が私の未熟な字を愛してくれていることに不安と喜びを感じ、嬉しくもなってくるのだった。
栗里さんは、古い日本がたいへん好きなようであるけれど、栗里さんが30代の頃上梓(じょうし)された『部落の女医』(岩波新書)を読むと、青春時代から西洋の、自由と民主主義の思想を体得されてこられたことが解かる。さらにその奥には教育や思想に依ってではなく、虐げられた人のために危険をも顧みずに行動せずにはいられない情熱的で慈愛あふれる稀有(けう)なひとりの人間が居る。この本の中から、気取らず飾らない、生き生きとした、限り無く魅力的なひとりの心(うら)若(わか)い女性の姿が浮かび上がってくる。私は強く心を揺すぶられた。そして人間が好きになった。好きな人間など皆無にひとしい私にとってこの人の存在は、人間への信頼を私に取り戻させ、とにかく生きつづけよと慈母のように私を励ましてくれたのだった。現在(いま)も若いときそのままの(実は、途中で休み休みしながららしい)栗里さんが一時間もかけて私のところへ書の勉強のためか、私を鈍(なお)すためなのかよくわからないが通ってこられる。栗里さんは年齢(とし)とったことを近頃よく嘆かれるけれど、私の目に映る栗里さんは、時空を越えた老子のように若わかしい美しい人である。
私の過去の作品、それは私にとって何ものにも代え難いかずかずの想い出に彩られた二度と書けない作品群ではあるものの未熟なできそこないの作品群である。その作品を心から愛してくれる人は、そう多くはない。そのひとりが栗里さんである。「こんなものは手本にしてはいけません。評価の定まった古典を習った方がよいでしょう」と何度忠告をしても栗里さんは、途切れなく私の過去の作品をかいてこられる頑固な人でもある。私には見えないなにか美しいものを私の過去の作品に感じられているのかもしれない。もしそうだとしたら、少し恥かしい。かくのをやめて欲しいとも思うけれど、正直なところ嬉しくもあり、いつまでも書きつづけて欲しいとも思う。私のかそい時代の作品にはあまり感じられないようだが、私の個展の時の祝い袋の表には「自由な心のために書いてください」と栗里さんらしい、形式に捕われない言葉が、自由な筆致で書かれていた。それは、乾いた大地に水がしみるように私の心を潤した。
多くの人に囲まれ、多くの人びとと共に生きてこられた栗里さんは、宇宙を見はるかしながら、ひとり悠悠と飛翔する空想の大きな鳥のように孤独な人である。小さく弱いものを慈しみ、戦争に泣くいたいけな幼子(おさなご)と涙し、愚かな人間たちに心の隅ずみまで疵(きず)つきながらも、日本列島を綱で引くといったスケールの大きな蕪村のイメージに感動する気宇壮大な人である。
美しい人間は、孤独なものである。孤独な栗里さんの心の中には、時代も国も異なる上等な仲間が大勢住んでいるように私は想像する。その中でも、特に親しい友人は老子だろうか。私は栗里さんから何度も老子のことを教わった。老子の「上善若水」という言葉を栗里さんはたいそう気に入っていられる。
形があって形が無い水は、私の理想の存在である。老子の語る真意はよく解らないが、水は万物を潤し上下の隔てがない。これは私たちの惑星だけのことかもしれないが、生命は、水の変化(メタモルフォーゼ)したものなのかもしれない。地球は水の星である。水は強大な力を内に秘めながら、静寂そのものである。水は恐ろしくもあり、優しくもある。色は様ざまに変化するが、無色透明である。偉大な力を持つ水は、人びとの中で汚されてもその性質はみじんも変らない。一番低いところにいて、全ての生命を支えているが、すきなときに自由自在に天に昇ることもできるのだ。一粒の草の露に宇宙を観る栗里さんが水なのか、露が栗里さんなのか、それを感じる私が露なのか、ともかく私には、栗里さんが水の化身のように思えてならない。
(2003年4月・会員つうしん第65号掲載)


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