丁寧な仕事
- harunokasoilibrary
- 6月27日
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秋、機会があって、欧州を一人で歩いた。20日ほどの間であったが、多くの衝撃を受けて帰ってきた。
もう、帰国してから40日が過ぎようとしているが、その震動は大きくなるばかりである。
その震動は大きな幹のような三本の振動を中心に、大小の震動が、大樹の幹や枝や根のように、からまりながら、大地と天空に炎のように萌え上がっている。その炎がどのようなものなのかを、いちいち説明することは、今の私の言語能力では不可能だと思われるが、しかし、大きな三本の震動のうちの一本について、舌足らずではあろうが、あえて、述べてみようと思う。

それは、欧州の芸術家のとてつもない「丁寧な仕事ぶり」の跡である。
レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画は、ロンドンのナショナル・ギャラリーとパリのルーヴル美術館で数点見ることができた。その数点の作品から受ける第一印象は、言い尽くせない程の「繊細さ」と「優雅さ」である。この印象は画集で見ていた時には感じなかったもの
である。この印象はこれらの作品のどこからやって来るのだろうか。
図1の「岩窟の聖母」には、ほぼ同じ大きさと構成のロンドン・ヴァージョンとルーヴル・ヴァージョン(図2)の2点がある。どちらかが複製画であるが、一般的にはロンドン・ヴァージョンが後に描かれたものと言われている。

ミラノにある教会(サン・フランチェスコ・グランデ教会とその付属の無原罪の御宿り信心会)の依頼による祭壇画である。聖母マリアと幼児キリスト、幼児ヨハネと天使(大天使ガブリエル?)が描かれている。主題は聖母子を礼拝する洗礼者ヨハネ。聖家族がエジプトに逃避する途中のどこかの岩窟だろうか、遠景に山岳と渓谷が描かれている。
ルーヴル・ヴァージョン(図3)の人物の肌は現実的な肌色で、遠景の山並みも渓も水墨画のような灰色である。それに対してロンドン(図4)のほうは、全体に青色で統一されている。この変化は何を意味しているのか。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、聖書による世界観や、古代の書物を読んで世界を解釈するのではなく、自分の五感で世界を感じ、観察し、自分の頭で思索し、それを実証して、世界を新しく認識した最初の近代人の一人だと思われる。だから彼は孤独であった。
ルーヴル・ヴァージョンでは、彼が長年研究してきた線遠近法と空気遠近法とスフマートとキアロスクーロ(明暗法)と解剖学によって見事に三次元空間を再現している。さらに、ロンドン・ヴァージョンでは色彩遠近法が加わり、異次元の絵画空間が実現している。単に世界を写すのではなく、芸術家の魂が表現され、青ざめた非現実の精神世界が出現している。

図5の「聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ」は制作年も制作場所もはっきりしていない。下絵のように見えるが完成作とも考えられている。キャンバスに貼られた厚紙に木炭と白チョークで描かれている。
図6の「聖アンナと聖母子」と構図はよく似ている。両作品とも年老いた聖アンナの膝に座るという不自然な構成になっている。また、聖アンナがマリアとあまりかわらないくらい若く見えるのも不自然である。この聖アンナをイエスだという説があるが、それはそうかも知れないが、憶測に過ぎないし、永遠に結論のでない謎で終るだろう。それにしても当時の依頼者の教会側はクレームをつけなかったのだろうか。

作品が教会に引き取られず、レオナルドが終生持ち歩いて加筆し続けているところをみると、依頼者はやはり、この不自然な、意味の解らない作品が気に入らなかったものと想像される。
レオナルド・ダ・ヴィンチという画家は、期限までに完成させなかったり、未完成のまま放置したり、本当に、すんなりとゆかない迷惑な芸術家だったんだな、と呆れかえってしまう。
しかし、それには、性格的なものもあるだろうが、それだけでは説明できない時代の先覚者としての宿命があったのではないかと私は思う。
現存するレオナルド・ダ・ヴィンチの作品は「モナ・リザ」やデッサンを除いて、ほとんどがキリスト教の主題を扱ったものである。聖アンナやマリアやキリストやヨハネなどの、そこに表現された表情やしぐさなどや、描かれた物などを丁寧に読み解くのも大事かもしれないが、それは別の機会に譲って、今は、レオナルド・ダ・ヴィンチが世界を捉

え、それを表現するとき、聖書や神話の記述や慣習よりも、遠近法や明暗法、ぼかしの技法や解剖学、観察と実験による認識法などを駆使したことに、先駆者としての意味を彼の表現の背後に見ることのほうが大事ではないかと指摘しておこうと思う。
ダ・ヴィンチは神の目ではなく、遠近法の目によって、神を絶対者の位置から引きずり降ろした先覚者であり、孤独で自由な人間の最初の一人なのだから。
図6、図7、図8をダ・ヴィンチは終生持ち歩き、加筆し続けていた。なぜだろう。不思議な謎多い芸術家である。
(2018年12月・会員つうしん第159号掲載)

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