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デタッチメント―孤独と魂の救済―

  • harunokasoilibrary
  • 5月31日
  • 読了時間: 6分

 安保法制に反対し、自由と民主主義と平和のために集り、大きな声を上げ、行進し、世直しを生きがいにするのも良い事かも知れないが、それは、今だけの事かも知れない。流行性感冒なら、何時かは通り過ぎてゆき、嵐も治まるだろう。人間にとってもっと大事なことが、そのような流行の底に静かに流れているように、私には思える。

 美術館では、現代アートと呼ばれる作品が展示され、テレビなどで話題になったりもしている。難解な現代芸術を大衆にも解るようにと、作家と美術館が一緒になって、ワークショップなどという大衆参加型の企画が流行しているようだ。アーチストと参加者が共同で作品を作りながら、創作を考え、問題を解決し、相互に刺激し合い、アートの面白さを知るということらしい。また、「草間彌生(くさまやよい)展」とか「蔡國強(さいこっきょう)展」「増田セバスチャン」の展覧会などが、日本はもちろん世界的に流行し話題にもなっている。

 これらに展示されている作品は、オリジナリティがあり、超巨大だったり、火薬で絵を描くなど、人を驚かすようなものが多い。しかし、このような事は、今に始まった事ではない。江戸時代、北斎(ほくさい)は、有名になるために、大きな公園ほどもある達磨(だるま)の絵を描いたりして衆目を集めたという。アートは見世物、際物(きわもの)に成り下がったのだろうか。そうではなく、アートとは、端(はな)から、それだけのものなのかも知れない。人びとは刺激を受けるだけで、救われたと錯覚することはあっても、真に救われることはないだろう。

 この世直しやアートに共通することは、集団で行動することである。孤独を嫌い、仲間や家族など、何でも集団でやりたがることである。この流行は良い結果を人間にもたらすだろうか。

 「芸術は自己の表現に始って、自己の表現に終るものである。・・・芸術の最初最終の大目的は他人とは没交渉であるといふ意味である。親子兄弟は無論の事、広い社会や世間とも独立した、全く個人的のめいめい丈の作用と努力に外ならんと云ふのである。他人を目的にして書いたり塗ったりするのではなくって、書いたり塗ったりしたいわが気分が、表現の行為で満足を得るのである。其所(そこ)に芸術が存在してゐると主張するのである。・・・徹頭徹尾自己と終始し得ない芸術は自己に取って空虚な芸術である。」(夏目漱石『文展と芸術』大正元年・1912年、より)

 この漱石の発言に対して、若き高村光太郎が、

 「この頃よく人から芸術は自己の表現に始まって自己の表現に終るといふ陳腐な言をきく。此は夏目漱石氏が此の展覧会について近頃書かれた感想文に流行の源を有してゐるのだといふ事である。・・・芸術は経験によって見ると、自己の表現に始まってはゐない。芸術が始まると自己が表現されるのだと考へる。・・・」と、反論している。

 また、晩年のインタビューで彼は、

 「・・・彫刻をやる時に自己表現をしようと思ってやるんじゃない、自然から受けた感銘を、生命を感じて、ただ表現したいから表現している、高村光太郎というものを表現してやろうと思ってやったことは一ぺんもない、出来たものを見れば、自分の作にちがいない、だから、芸術は自己表現に終るけれども、自己表現に始まるというのはちがうって書いたんです。・・・」とも、話している。

 高村光太郎という人は、思い込みの強い人のようだ。漱石の文もきちんと読まずに、漱石ときいて、権威者、即否定、と短絡的に突っ走る。なぜだか分からないが、おそらく、彼が生まれ育った環境がそうしているのだろうけれど、若い頃のこの人は、思い上がった、愚かで、幼稚な人間のようである。

 「芸術家たるべき資格は、自ら進んで徹底的に己れを表現しやうとする壮快な苦しみに存する・・・」(夏目漱石『文展と芸術』より)

 〔「特色ある己れ」を忠実に発揮する芸術に就いてのみ余は思索を費やして来たのである。団体が瓦解して個人丈(だけ)が存在し、流派が破壊されて個性丈(だけ)が輝やく時期に即(そく)して、芸術を云々するのが余の目的である。〕(夏目漱石『文展と芸術』より)

 右のように、漱石は確かに自己表現の大切さをくり返し言っているが、その真意は、芸術は自己の内部から発したものでなければ価値がないということ、内発的でないものは偽物である、真の芸術はジョブ(金)や人気(名誉)取りとは無関係である、自分の芸術的良心が芸術の原動力である、というような事ではないだろうか。漱石が何処(どこ)かで夏目漱石を表現しなければならないと考えていたとしたら、それは、芸術とは漱石という絶対的個人の個性が表現されたものの事だと考えていたからだろう。

 高村光太郎が言うように、美は客観的に自己の外部に存在しているのかも知れないが、仮にそうだとしても、それを感じるのは自己の身体であり、脳であり、心である。やはり、漱石の言うように、芸術は自己に始まり、自己に終るもの以外のなにものでもない。認識と表現は違うと言われるかも知れないが、表現と認識は表裏一体のものであると私は考える。美が自己の外にあろうが内にあろうが、それはどうでも良いことである。

 「津田君の画には技巧がないと共に、人の意を迎へたり、世に媚びたりする態度がどこにも見えません。一直線に自分の芸術的良心に命令された通り動いて行く丈です。・・・彼の偽はらざる天真の発露が伴ってゐるのです。」(夏目漱石『美術新報』大正4年10月、より)

 漱石は「天真爛漫(てんしんらんまん)」な人を愛した。漱石の自己表現とは、自分の中に在る「天真」の表現であったと思われる。「天真」とは、偽りや飾り気のない、生まれ持った純粋さの事である。

 漱石も津田青楓と同じく、自己の芸術的良心を純粋に描こうとした。漱石は、そのような純粋な自己を発見し、そのような「天真」を表現する人を本当の芸術家だと、無邪気に感じ考えたのだと、私は思う。

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 漱石は芸術の純粋さを人間性の最高の表現であると考えていた、そこに漱石にとっての唯一の救いがあったと思われる。来年は漱石没後百年である。漱石が旅立ってから今日までの百年間、日本と世界の芸術は、ある面では個性爛漫になった、といって良いかも知れないが、「天真」は何処にも見あたらないようである。

 多くの人々にとって、芸術はあそびごとに過ぎず、自己の魂を救う手段ではない。商業主義に乗った現代アートのスターたちが、美術館やメディアに支えられ、その宣伝に乗った大衆が、芸術あそびに狂奔する。

 「ひとりきりでいること、瞑想のなかに沈潜し、それをいわば恩寵としてうけとめるように」(グレン・グールド)

(2015年10月・会員つうしん第140号掲載)

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